1.七社参り
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関之戸(新居浜市船木)では古くから、婦人たちの希望者で行なう七社参りがあった。一度に五人から七人くらいで行ったと思うが、時期は春秋の彼岸の中日前後で、農家のひまな頃をみはからって参詣をした。
家族や、友人、または地域の安全を祈願し、幸せを今日より明日へと、神仏の加護を祈願し、長い道のりを、つぎからつぎへとひたすらに歩き、神前にぬかずき一心に祈る。祝詞や念仏は人様々でも一心に祈る心根は尊いものである。七社とは、船木神社に始まり、高祖三島神社、川口新高神社、山根内官神社、瑞応寺金昆羅宮、泉川浦渡神社、東田東台神社で終わる。
大正十一年か十二年頃だったと思うが、母の代参で二度ほど連れていってもらったが、にぎりめしのべんとうを持って半日以上の道のりであった。さいせんの外にこづかいとして三銭か、五銭ほどもらったか、確かなことは覚えていない。終戦後、七社参りはいないと聞いたがざんねん。これも時代の移り変わりかもしれない。
(宮原 伊藤千代松 記)
船木村
むかし官用船材を供出したので「船木」の名が出来たといわれる。
奈良時代の天平勝宝八年(756)十一月大和国東大寺墾田として「新井庄」の設定が初見(東大寺文書)。弘安九年(1286)京都悲田院領「船山」(大山積神社文書)、観応二年(1351)禅昌寺宮領「船木山」(河野家文書)と見え、鎌倉以降船山または船木山をもって名とし、寛文四年(1664)一柳監物領知目録に至って「船木村」と称した。
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2.千人祈祈祷
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私の生まれた所(市内船木関之戸)に古くから千人祈祷という行事がありました。千人祈祷とは、その名の通り一人でも多くの人たちから、一銭でも十銭でもおさいせんを協力してもらい、地区の家庭内に病人が出て、医者に診てもらっても、なかなかよくならず、長引き、ますます重くなるような時、病家よりの依頼の場合の他、近所の親しい人、または病家の親類の人が病家と相談をして了解があれば、地区内の各戸はいうにおよばず、近郷の人々の協力を得て、祈祷をし、神仏の御利益を頂き、早く全快するといわれました。
しかし、逆の場合もあるといわれます。
私の知るかぎりでは、祈祷を頼む寺は、氷見西田の前神寺、徳島の箸蔵寺のどちらかでありました。私が二○歳の頃、近所に重病人があり、たいへん困っており、病家の依頼で千人祈祷をすることになり、兄の友人鴻上忠美さんと二人で、箸蔵寺へ御祈祷のお詣りにいくことになりました。五○余年も前のこと、自家用車もパスもありません。早朝自転車で出発。箸蔵寺で御祈祷を頼み、お札を頂いて帰路につきました。
往くときは上天気でしたが、帰路は風が出て自転車の運転ままならず、徳島と愛援の県境、境目峠の頂きまで帰った時は正午を過ぎておりました。
左側の民家へ立ち寄り、わけを話して昼食を食べさせていただくようお願いをすると、おかみさんが、何もありませんがありあわせでよければと御世話をしてくれました。おかずは忘れもしない板竹輪と、たくあんの潰物でした。うれしかった。坂をおりると川滝村で、山を越えると名にし負う寒川やまじ風、坂をおりるのもたいへんでした。金田まで帰った時、私の下駄の鼻緒が切れ、妻鳥まで帰って鴻上さんの自転車の前車輪がパンクしました。
「だめだ。これはお蔭がないかもしれない。」
と二人は心配しながら、風の中を急ぎました。帰着すると心配どおり、病人は不帰の客となっておりました。
こんなとき祈祷依頼にいったものはなんといったらよいか、ほんとうに心苦しいものです。
この千入祈祷によって、御利益を頂いた人が地区内に二人か三人、だったかおり、また隣り地区にもおられたと聞いとります。
(宮原 伊藤千代松 記)
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3.赤坂橋
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船木関之峠は、江戸時代になり南海道(讃岐街道)を通り、金比羅官への参拝に、四国霊場巡拝に、また、行商人と、道行く人々が多く行き交う、峠の宿場町として、にぎわいを見せた所である。
新屋本家の裏山の谷から、下栗屋の所へ流れる小川に石橋が架かっていたそうである。
関之峠の鴻上さんの奥さんが、東京の息子さんの所へ行ったとき、年老いた隣りの人から、「伊予の関之峠に今も赤坂橋があるか。」とたずねられたが、奥さんは他町村からきたので知らなかった。
当時の橋は自然石で、幅一メートルほどの一枚石だったとのこと。その老人は四国巡拝か何かに出て知ったらしい。地元では場所や名前も忘れられている。今は橋の上約四メートルほどの所を国道十一号線が走り抜けている。
(宮原 伊藤千代松 記)
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4.共有山(現・長野山市有林)と大蛇
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私たちの住んでいる船木地区で、昔から親から子へ、そしてまた孫へと語り継がれた伝説の一つに、長野山字マタニ乙二番地に五八三町歩余の山林がある。この山は昭和三○年の市町村含併前は船木村外三ケ村組合の山林(共有山)であった。
昔、昔、その昔、この山中できこりが一日の仕事を終えて、その帰りに、山道に横倒しになっているひとかかえもあるような
マツの古木、それに苔が生えていたというところに、疲れを癒すために腰をおろし、一服ときせるを取り出したところ、マツの古木がゴロッと動き始め、始めてこれが音に聞く大蛇と知ったという。
びっくりしたきこりはほうほうのていで帰宅したが、そのまま臥床の身となり、ほどなく死亡したといわれる。この大蛇はびっくりするほどの大きさで、どちらが頭で、どちらがしっぽかわからないほどであったと伝えられている。
(船木 神野広満 談)
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5.船木坂の下大師堂
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船木坂の下に古くから大師堂がまつられており、たいへん御利益があるのだそうです。
子供の頃、父親から間かざれた話ですが、どこの人であったか、両親にたいへんな不幸を続けた人がいました。ある晩、両親につらくあたりちらしてから、風呂に入ったのだそうです。
その頃の風呂釜は五右ェ門風呂といって、鉄でつくられていて、下からたきぎを燃やして湯を沸かしていました。この不孝者の息子が風呂に入ってしばらくすると、風呂釜の底に敷いてある底板がお尻にひっついてしまいました。
これを聞いた近所や世間の人たちが、
「両親にあまりにも不孝を重ねるから、罰が当たったのだ。」
といいました。また、兄弟や、親類の人たちは、
「心を入れかえて、四国八十八ケ所を巡拝して、御大師様の御利益を頂いて、取ってもらいなさい。」
ともいいました。
話を聞いていました息子は、「自分が悪かった。御大師様におすがりしよう。」と、心に誓い遍路の旅に出ました。御大師様を念じながら。お四国をめぐりめぐって坂の下の大師堂まで来て、一心に念じ、お願いをしていますと、板が取れました。うれしかったことと思います。
学校の帰りに友だちとお堂の戸を開けて中を見ますと、正面の大師像の右側の壁にその底板が立てかけてありました。その他に松葉杖、菅傘、いざり遍路の腰当てなど、いろいろなものが置かれているのを見ました。こういうものが置かれているのは、お蔭を頂いた人のものではないだろうかと思いました。
この他にもお蔭を頂いた話を聞きましたが、なにぶんにも子供の頃のことなので、どこの誰が、何で何をということは忘れてしまいました。
新居浜市新四国八十八ケ所二○番札所
御詠歌 南無大師今も昔も柏坂
よろずの功徳利益残せり(筆者奉納)
(宮原 伊藤千代松 記)
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6.長川毘沙門堂
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その昔、長川地区の南西伊保城趾東側麓にお堂が建てられていたそうで、今もその跡地があり、お地蔵様や、庵主の墓碑があります。その頃、侍が騎乗のまま、お堂の前を通りかかると、ウマが立ち止まって動かない。時にはウマが暴れ、落馬することもあったそうです。
そのためかその後お堂の名を、駒止長川毘沙門堂といったそうです。その付近は、昔、太政官道が通っていたといわれるところです。
いつの頃か年代はつまびらかではありませんが、現在地に移築されたとのことです。大正末期の頃まで毎年一回正月に「駒止長川毘沙門堂」のお札が、各家庭や、参詣者に出されていたそうです。札をつくるのに使われた印判は今不明とのことです。知人に聞くと、長川の鴻上豊さんが管理されているから聞いてみたらとのことでした。鴻上さんに聞いてみると、
「昭和四年正月の火災の際にお堂が全焼したので、その時に焼けたものか、いろいろ探してみたが見当たらない。」
とのことでざんねんです。なんとか元にかえしたいものです。
新居浜新四国二十三番札所
長川毘沙門堂(本尊昆沙門天)
(宮原 伊藤千代松 記)
池田柏坂の古池
古くは東大寺文書に「柏坂の古池」の記事があり、また仁明天皇の承和七年(840)七月十一日の郡司勘定文にも「野八十町、池地三町六反百十歩、これを柏坂の古池と号す」と記されている。
このように船木地方は古代から漕漑のため、池を築き、農業の振興に貫献したところで、池田柏坂の古池は約一二○○年前からあったということで、大変古い地名である。
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7.餅つきと天狗
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船木の大久保にも昔話があったろ。餅をつきよって、天狗に子供をさらわれた話よ。
昔ね、せっき(年末)の餅をついていたんよ。その時子供があまりうるさく泣くので、外へ投げ出したんと。ところが、いよいよその子の泣き声が遠ざかってゆくけね。おかしいねと思って外をのぞいたら、赤い着物のその子が天狗にさらわれて、山の方へ飛んでいったそうな。
さらわれたその子の着物は、どこやらの池にあったといいよったよ。
わたしゃ寝物語りにおばあさん(母)からよう聞いたんよ。
それで年末にはその家ではお餅をつかんようになったいうね。大久保いうたら昔はものすごく山奥だったんよ。
(下東田 徳永 富貴子 談)
オオダラ
西の方のなる地を「にしだわら」といい、東側には、谷の向うに、下から「かまなる」・「ゆみそ」・「いけやなる」という地名がある。人も住んでいましたが、雨乞いの人々がその処を登っていりたのを覚えている。何か急用の起った時にはこちら側からかまなるの方へ大声で知らせたら声がとどいて便利なものでした。
鈴木キミノ談
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8-1.オオダラのお地蔵さん(一)
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ワタシラ、こまい時ヤー明治の末のことだったように思う。川東の人?宇高か郷辺りの人で、耳が悪かったのがオオダラのお地蔵さんに祈願して治ったという。
そのお礼にモチなどをついて、参拝者のみんなに接待をしたことがあったのを覚えています。
今は誰も住んでいないが、六、七軒ほど家があった。子供時分はお地蔵さんの所に行ってよく遊んだものだ。お米を少しずつ持ち寄って、「茶たけ」というのを焼いて食べたりもした。
また穴のあいたカワラケがたくさんあった。これはお願いごとをする人が、年の数だげ買って来て供えたもので、このカワラケをとって遊んだのもよく覚えている。
(西喜光地 鈴木キミノ 談)
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8-2.オオダラのお地蔵さん(二)
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お地蔵さんは、旧の七月十三日が縁日だったと思います。こんな話があります。
ある日のこと、ある子供が、
「お地蔵さん、相撲とらんか」
といって、お地蔵さんに頭から飛びついてそのまま死んだということです。
(高祖 篠原コギク 談)
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8-3.オオダラのお地蔵さん(三)
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新須賀あたりの人で、「首がおきた(なおった)」ので、そのお礼にお地蔵さんでお祝いをしたことがあります。
昔からオオダラのお地蔵さんは、首から上の病に霊験あらたかなそうです。
(船木 伊藤コスギ 談)
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9.おこんぴらさん
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村なかの家があった所から少し登ると、見晴らしのよい所に出ます。そこに「おこんぴらさん」があります。
コスギさんのおじいさん(百太郎)が建てたもので、村の人がまわり番で、毎晩一文ローソクをともしていました。
そのコンピラさんの下の地の東側の方には「金子はんが死んだ。」あとがあるといわれています。
コスギさんのおじいさんは一一○歳まで長生きしました。
(高祖 篠原コギク 談)
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10.八幡神社(現船木神社)と大蛇
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船木神社は新居浜市船木字上原一五一五番地に鎮座し、本神社の境内は八幡山と称する丘陵となっている。北には淡水を満々と湛えた景勝地、池田の大池がある。
この船木神社は明治四一年二月一○日、愛媛県訓令第六号によって、上長野の三嶋神杜、長川の長川神社、大久保の客谷神社、三曽の三曽神社、大多羅の大多羅神社、以上の旧村社と、元船木の吉備津神社、高智神社の旧無格社を合併祭祀し、船木神社と改称、明治四一年九月十七日に御遷宮式をあげたが、それまでは八幡神社と称して貞観(860)二年大分県宇佐より勧請されたものと伝えられている。
古老のいい伝えでは池田の池に谷が一○○あると大蛇が棲むようになるので、八幡様一谷をかくし九九谷にし、氏子を庇護されており、また大蛇は目に見えないが池に棲んでいて船木神社を守護しているとも伝えられる。
(船木 神野広満 談)
柏峠
生子山城主松木氏が池田の大池の北を切り抜き、現在、十一号線として使用されており、そのむかしは太政官道があった。
伝説として、天正十三年(1585)の戦いの時、宇摩郡に上陸した小早川軍を、保国寺の和尚が柏峠に出迎え、詩を賦して和を乞うたので隆景が和歌をもって答えたという。その真偽の程は詳らかでないが、後世、柏峠を歌詩和峠も書く。
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11.タヌキに化かざれた話
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今の人が耳にすると笑い話かもしれないし、お伽嚇かと思うかも知れないが、子供の頃に聞いたこれは本当の話だ。話に出て来る人は実在の人であったし、自分も学校の行き帰りに、毎日のように会っていた人たちであり、名前もわかっている。実名は避け、Aさん、Bさんとしておこう。Aさんの場合、家族と共に一杯飲んで夕食をすませ床についた。夜が明けても起きてこず、家の内にも外にもAさんの姿が見えない。家族は心配になり、近所の人に頼んで各所をたずねたがいない。
市場川を探していると、川の中のたくさんの大石が動かされているので、川上と川下の二手に分かれて探すと、川上の水の中で全身ずぶぬれになり、寝間着のすそをからげて、Aさんは熱心に大右を動かしていた。声をかけ肩をたたくと気がついたので聞いてみると、父親に頼まれて、車のあとおしをしていたといったそうである。
タヌキが川ガニを取って餌にするために、Aさんをだまして石を起こさせていたのだそうである。
Bさんは結婚式の手伝いに行ったまま、夜明けになっても帰らないので、家族や、地域の人たちが出て、手分けをして探していると、市場川から通り谷川にかけて石を動かし、通り谷の上流の川の中にBさんがいるのが見つかった。
BさんもAさんと同じように、川下から川上へ、一晩中石を動かしていたのである。Bさんは酒に酔って帰宅途中、たぶらかされたようで、私はAさん、Bさん二人共よく知っているが、本当によい人たちであった。
今はAさん、Bさん、それにこの話をしてくれた父もこの世にはいないが、それぞれの子孫の人たちは健在である。
(宮原 伊藤千代松 記)
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12.市場川橋と背高坊主
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大正何年頃であったかはっきりしないんだがね。私が小学校低学年の頃であったよ。関之戸に表屋という宿屋があってな。そこに中年の坊さんが来て泊っていたんだが、「毎晩出ていくんだよ。」と、その家の友人の広美さんがいっていたが、三、四日で帰っていった。
それから一年後にまた、同じ坊さんが来て泊っていたが、何日たったろうかな。古いのでたしかなことは忘れたが遊びに行った時、広美さんと二人でお坊さんに聞いてみたんだよ。
そうしたら坊さんのいわれるにはね、去年四国を巡拝して橋の所まで来た時に、何か異常な気配がしたので泊めてもらって、毎晩出かけて行ったが、自分の力不足であることを覚ったんだそうな。そこで高野山に帰り、一年間修業をしてふたたび来たのだそうな。
「毎晩橋に行っていたがゆうべで終わったよ、もう何年もでないだろう。出て来たのはイタチの背高坊主だったよ。」となにげなくいわれたあと、「明日の朝はお山へ帰ることにしたよ。」と、笑っていた。
もう二度と来ることもないだろうともいっていたがね。あれからもう何十年、あのお坊さんが今頃何をしているだろうなあ、と、この年になってもときどき思い出すときもありますね。
(宮原 伊藤千代松 記)
カメ谷
船木上原にあり、池田の大池の東南沿いのところ、奈良時代のかま跡で、昭和ニ七年(1952)二月発見され、ついで昭和三七年(1962)八月、学術的発掘が行なわれたもので、構造は燃焼室と焼成室が右をもって区画された、登りがまと推定されている。
出土品は郷土舘で保存され、学術上重要なもの。ここを通称カメ谷と呼んでいる。
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13.太鼓台
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高祖の太鼓台は明治の初め頃に、東田から買ったという。なんでも買った頃には、八人ぐらいで神宮寺へかつぎあげたという。今のより小さかったのだろう。その時のかき棒や、ボロボロになった中幕もあったが、戦後、神社の火事で焼けてしまった。
大正時代の初め頃に、太鼓台を維持できないので、売ろうという話があった。その時に「万はん」という人が、自分が寄附した分だげは残してくれとただ一人反対した。それで現在まで、太鼓が残ったということだ。
この人はなか腹の座った人で、高祖と国領で水争いの起こった時、大釜の所へ入り座りこんで水をせきとめ、高祖側に水を流してがんぱったという。
(高租 鈴木正時 談)
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14.祇園はん
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そりや祇園はんの祭りはにぎやかだった。一週間も前から若衆が御神灯を立てて火をともしていた。お宮への道が三方(東・北・西)にあって、それぞれの道筋と、祇園はんヘの登り道に立てた。その明かりは「とうしみ」を使っていたが、タヌキによく油をなめられてしまった。御神灯の張り紙には、よく戯れ歌やら、いろいろの文句を書き付けていた。「牛頭天王」などとも書いていた。
この紙園は夏祭りで、旧暦の六月十四日にしていたが、ある年に春にしたことがある。
食べ物がくさるのでそのようにしたということじゃが、その年にはおかしな疫病が流行しておおぜい死人が出たそうな。それで結局、元の通り夏の祭りにしたということだ。
この紙園はんの日の「おかず」は、ウリの酢物と、魚の「ハモ」に決まっていた。キュウリの切り口が祇園はんの紋なので、それでこの祭りにはキュウリを食べずにウリを食べるという。
(高租 鈴木正時 談)
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15.三島神社の御神像
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僕らが子供の時分には、享徳はんのお通夜と、祇園はんのお通夜、氏神はんのお通夜、若富はんのお通夜と、これだけお通夜があったんよ。
享徳はんは川口で、こちら(高祖)ではなかったが、各年のお通夜には「煮しめ」を重箱に詰めて持ち寄り、二升のお神酒の他にもお酒を飲んでいろんな話に花を咲かせたもんだ。
昔、豊臣秀吉の命で兵が攻めて来ただろ、そのときに生子山の手前に享徳寺ちゅうのがある。その享徳さんのお寺の坊さんが強うて、豊臣方はあそこを攻めえちゅうことで、いちおう三島神社を焼いたという。
そのときにヤクさんの古い先祖の人(門根という名)が神社の御神像を祇園はんに負いあげたという。大小あわせて二○数体おられた。祇園さんの所の、一の谷という所に隠したといわれている。
(高祖 鈴木正時 談)
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16.享徳寺ガクゼンと金の二ワトリ
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享徳坊ともいうちょるが、享徳寺のガクゼンさんは強い人であった。豊巨側の兵が、
「ウシの毛の数ほど攻めて来て、ウシの数ほどになった。」というくらいがんばったそうだが、やがて力尽きて坊主淵へ飛びこんだ。
そのとき、享徳寺にあった大きなツパキの木のもとにあったかめから、金の二ワトリが飛び出ていったそうな。
戦後、誰かしら、金の入ったかめを掘り当てようとしたが、何もなかったいうことだ。
(高祖 鈴木正時 談)
新吾屋敷
天正十三年(1585)、小早川隆景伊予征討の時、松木三河守安村の嫡子松木新之丞、別名新吾というが、この戦いのとき、西谷川奥の新吾屋敷に落ちのびたといわれている。
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17.樽ケが淵
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種子川の支流西谷川の上流に、有名な魔戸(窓)の滝がある。昔、種子川村の人たちが水が不足すると、ここへ樽を背負って水を汲みにいった。滝は三段になっていて、上から上樽・中樽・下樽と今でも呼ばれ、昔は滝を総称して「樽ケ淵」と呼んだ。
(種子川 横川明 談)
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18.どんじゃ窪と空ら谷
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昔、種子川山村に大人という、普通の大人の数十倍の巨人が住んでいた。温厚な人で、力を自慢に村人にわるさなどをせず、みんなに親しまれていた。ある日、大人はのどがかわいたので、東種子川の上流下兜山の下で、大きい谷にたまっていた水を、四つんばいになって飲み干した。
谷はそれ以後水がたまらず空ら谷となり、谷をはさんで東・西に大きくえぐられた足跡のようなものが現存する。それをどんじゃ窪というそうである。
(曽我部実 談)
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19.南光院はんはヤキミソが好き
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ある日、瑞応寺の月庭和尚さんが高知方面に用事ができて銅山越えに行きよったそうな。ところが山道の途中で見知らぬ山伏とすれちがったそうな。そうすするとにわかに腹が痛くなった。これはおかしいと、そこにうずくまって思案したそうな。
ああ、これはさきほどの僧にちがいない。あれは南光院であったか。これは挨拶せねばなるまい??と思い当り、すぐにお供の僧に、
「南光院に挨拶をせい。」
と命じて、さきほどすれちがった山伏のあとを追いかけさせた。
やがてしばらくして、小僧が南光院に追い付いたとおぼしき頃、月庭和尚の腹痛も止んだという。そこでわしらは、腹が痛くなったら、南光院はんの好物のやきみそ(朴葉の上にみそをのせて焼いたもの)を食べて、「南光院さん南光院さん。」といっておまじないをしたらなおるといっていたもんだ。
(高祖 鈴木正時 談)
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20.垂れきん鼠賊を走らす
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船木村と種子川山村は数年にわたり、種子川の導水の問題であい争っていた。
そして明治二一年の春、松山地方裁判所で重大な公判が行われることになった。
種子川山村を代表して水利問題に奔走したのは、種子川山村川口の横川甚作であった。
折も折、公判は結婚の翌日であった。
甚作は結婚式もそこそこにわらじばきに菅の傘、着物の尻をはしょって、深夜、サクラ三里の峠にさしかかった。鼠賊らしき者が三人、たきびをし、「カモ来たれり」と、眼を光らせて侍ちかまえている。甚作は五尺八寸はあろうかという偉丈夫、恐おれも臆くせもするものか、焚火の輪に入り、腰かけの木株にどっかり腰をおろすと、煙草をぷかぷか吹かしはじめた。
そのとき甚作の股のあたりを、じろじろ見ていた三人組は、急にそわそわし始め、しばらくすると袖引きあって逃げ出した。よく見ると甚作のふんどしから大きい垂れきんが伸び切って、ぶらりんとゆれているのであった。
鼠賊は甚作の垂れきんを見て、その人物を察し、三十六計を決めたのである。
(種子川 横川幸子 談)
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21.七かまどといらず山の天狗
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杣の平四郎が天狗の右足を切ってからというものは、別子の山には天狗の姿が見えなくなりました。ところがその後、銅山峰を始め、角石原のあたりで、霧の日に白髪の仙人の姿を見受けるようになりました。山で働く人たちの仲間では、あの仙人こそ昔から聞いている「いらず山」の天狗の変化であるといわれて恐れられるようになりました。でもその後白髪の仙人は、人々に危害を加えることもなく、また、何の不思議も見せなかったのでありました。
ところが明治十九年(1886)第一通洞が貫通したことによって、二百数十年間、別子の南口に搬出されていた銅鉱が、北口の角石原あたりに搬出されるようになり、また角石原には選鉱場が設けられ、またそのあたりに焼かまどを新しくつくることになりました。そしてその工事が完成していよいよ明日から火入れということになりました。
翌朝現場に行ってみると、夜の間に焼かまどは完全に破壊されているのです。関係者は驚いて、またただちにこれを修理して、火入れ式という朝になると、また壊れている。またまた驚いて修理をする。今度こそはと、火入れ式に臨んでみると、またまた壊れているありさま、このようにして、修理を繰り返すこと七回におよびましたが、鉱山の方では再三、再四の出来事になんとなく不安に襲われて、ついにかまどを築くことを思いとどまったとのことであります。
その後、そのかまどを築いていた場所は誰いうとなく、七かまどと名がつけられて、今もなお、そのように呼んでおります。
そんな出来事があってからは「これはあの白髪の仙人の仕業だ。いや、あの白髪の老人は『入らず山』の天狗の変化であろう。」などとしきりにうわさされるようになりました。そのうち明治二六年(1893)になって、海抜四千尺の山上、東平の上方には鉄道が敷設されて、愛援県では初めて汽車が姿を見せるようになりました。明治二六年八月に設けられたこの上部鉄道は明治四四年(1911)十月廃止されるまで、ただの一度も事故を起こさなかったのですが、その間、霧の深い日など、列車が七かまどのあたりにさしかかったとき、線路のまん中に白髪の仙人が現れて動かないので、列車は仕方なく、立ち往生することがたびたびあったといわれております。
また、七かまどのあたりに植林のための小屋を設けてありましたが、手入れ刈りの人々がこの小屋に泊っていると、屋外から何者かが現れて、小屋をゆすぶることがあったといわれていますが、これもみんな白髪の仙人に変化した、です。
(もと住友東乎荘 故 木村佐吉 談)
角野村
起源は詳らかではないが、郷土史家近藤晴清氏の記録によると、昔この地方を「真住野原」と呼び、真は住野原の修飾語で原は野を助けている言葉で、「真住野原」「住野原」更に「住野」、角野村と変っていったという。
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22.月庭和尚の法刀
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修行中の弟子や、中年の寺男が寝床に入り、眠りに着こうとした時でした。隣りの部屋から、夜着のまま走り出て来た月庭和尚が、
「たいへんだ。尾道のお寺が焼けている。手桶を持って下の池へゆけ。」
と、自分も急いで手桶をひっさげて、弟子や下男を急がせ池におり、
「尾道はこの方角だ。その方向へ水をかけろ。」
と、夜着がびしょぬれになるのもいとわず、かけ声も勇ましく、手桶で水をすくってはかけ、すくってはかけ、尾道の方向ヘ、息をつくひまもないぱかりに水をかけるのでありました。
しばらくして月庭和尚は、
「やっと消えた。着物を着替えて休みなさい。」
と、弟子や寺男の労をねぎらうと、自分も手桶をさげて帰り、台所にしまうと、部屋に帰って何事もなかったように寝てしまいました。
そんなことがあってから数日後、尾道の天寧寺からお礼の使僧が来て、
「先日当寺の火災にはたいへん御世話になりました。瑞応寺からの水が飛んで来たお蔭で、あやうく全焼をまぬがれ、御本尊様もぶじでした。」
と丁重な御挨拶をせられました。月庭和尚はというと、
「それは何よりでした。御帰りになったら和尚さんによろしく。」と、
いつに変わらない態度で挨拶をうけられたのです。
時は元禄(1688-1703)の頃です。はるばる尾道からの使者ですので、食事をしてもらったり、お弁当を用意してお帰り願ったのですが、食事のとき、月庭和尚がいないすきに弟子が、
「どうして当寺からの放水とわかったのですか。」
とおたずねすると、「伊予東角野村瑞応寺の大幟とともに、窓から水が滝のように降ってまいりました。」
との返事に、弟子はびっくりしたということです。
瑞応寺史によると、五世再中興・月庭要伝、享保十一年(1726)十二月十一日笈、七五歳とあります。
(国領 千葉誉好 談)
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23.萩尾山金毘羅宮由来記
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ある年のある日のこと、空がにわかに暗くなったかと思うと、南の山の方がぼおおっと明るくなりました。お百姓さんたちは大雨でも来るのかと、畑から帰りじたくをしたり、庭にいた人は家の中へ入ろうとしていた時だそうです。
南方の一部の空が明るくなったので、みんながその方へ目を向けたとき、空からひらひらと金色の御幣が降って来て、瑞応寺の東側の山の中へ落ちるのを見たそうです。今まで暗くなっていた空がもとのとおりとなり、天から降って来た御幣を見た人たちは大騒ぎとなり、つぎからつぎへとそのことが伝えられました。
瑞応寺さんでも、それを見ておられ、時の和尚さんが御幣の落ちたところへ行ってみると、
「金毘羅山大権現」
と書かれた大きな御幣が土に刺さっていたということです。
和尚さんはこの頃各地に「金毘羅講」がつくられ、その講連中の中から代表者が、讃岐の金刀比羅官へ参拝にいく、「金毘羅参り」が盛んになっていた時なので、讃岐の金毘維様が、わざわざ百姓がひまをつぶして讃岐路を訪れると丸二日はかかる。その二日間働けば仕事もはかどるし、藩からもいろいろいわれないだろうから金毘羅様をここにお祀りしろということだとお考えになり、うわさを聞いたり、現実に見たりした者が瑞応寺境内へ集まって来た時、そのわけをみなに話し、庄屋らにも頼み、御幣の立っていた場所に建立したのが、萩尾山金昆羅宮だといわれています。
今でこそ参拝者も少なくなりましたが、戦前までは正月、三月、十月の十日を「お十日さん」といい、一日中雑沓の中でお参りせねばならぬほどの参拝者があり、当日は拝殿下の土俵では奉納相僕も行われていました。
ここの常夜灯などの一番古い年代は天明八年(1788)春三月吉日で、天保八年(1837)のものもあり、鳥居は天保三年(1832)九月、狛犬は天保九年(1938)八月献納と彫られています。また各地区にも寛政六年(1794)頃より常夜灯をつくり、奉献したらしく、現存のものでもJR線路より南に三六基、北に五基、この外に萩生南の坊萩生金昆羅官のものと思われる常夜灯が三基あるようです。
(国領 千葉誉好 談)
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24.立川大師堂の由来
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立川はんの西の山と、東の生子山とにまたごえて、川で顔を洗っていた怪物がいた。
それで御大師様が立川の大師堂をつくって、その怪物を封じたという。
(高祖 鈴木正時 談)
立川
景行天皇第十二皇子武国凝別乃君が伊予の御村(新居・宇摩・周桑の三郡)を治めた。その子孫意伊古乃別君や、竜古乃別君が種子川山、立川山を開発し、竜古乃別君は現在竜河神社に祀られている。
往古は立川を「竜古」と呼び、川に竜が住んでいる伝説から「竜河」、更に立川となった。
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25.負いふごの隠し畑
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寛文年間(1661-1672)の立川銅山開発は村民に刺戟を与えた。立川大の平地区の儀兵衛爺さんもその影響を受けた。儀兵衛爺さんは中肉中背で奥目の上、目尻に大きい皺があった。耳は福耳で左右にホクロがあり、得意なときには、耳を動かすことができた。
儀兵衛爺さんは毎日のように、大の平の隅の雑木林を開墾した。ゆるやかな山の斜面を耕し、石垣を築いて段々畑をつくった。塵も積もれば山となる。爺さんの毎日の努力の結晶は数々の段々畑をつくりあげた。
今日も開墾が終わり、帰宅の準備をし、石垣に叺を敷いてひと休みしていると、友人の五助爺さんが通りかかり、何枚できたかとたずねると、百枚できたとすましていうのでそんなにできたかと五助がびっくりして、段々畑を一枚二枚と数えたが九九枚しかない。五助は九九枚ではないかと詰め寄ると、儀兵衛爺さんがドッコイショと立ち上って座っていた叺をのけて、「これで百枚じや。」というと、儀兵衛爺さんは両耳を動かしながら夕闇に消えた。
ある日、爺さんが家で畑の広さの計算を、そろばんをぱちぱちはじいていそがしそうにしていると、そこへやせた六十六部がやって来て、さかんに読経し御布施を乞うた。爺さんはそろばんができずうるさくてたまらない。爺さんは「え?と八畝六歩。」(畑の面積八畝六歩とやせた六十六部をかけた)。またそろばんをはじき「八畝六歩。」、外の六十六部もこれに負けじと大声はりあげて読経する。爺さんも負けずに大声で「ヤセロクブ。」とやり返す。とうとう六十六部は負けて怒りながら退散したという。
爺さんの百段地も明治(三二年八月二八日)の大つなみに押し流され、子孫も現存するが耳動かない。
(郷上の伝説十三特選集 故 近藤晴清)
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26.柄鎌八幡
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立川神社のずっと南の所に、柄鎌八幡が祀ってある。これは生子山の殿さんの娘が、天正の陣の時に、士佐方面に逃げようとした。
ところが村の老婆が追手に告げ口し、捕まえられて殺されたという。
殺された娘がうらんで祟ったので、村人が娘の霊をなぐさめるために祭ったという。
(高祖 鈴木正時 談)
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27.山神馬を洗うの奇計
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生子山城のまわりを、うんかの如き小早川隆景の大軍が取り囲み満を持している。東の西谷川・西の芦谷川の水源を極め、城中、水がないのを確認し、わが大軍を前にわずか二○○の城兵がいかに対応するかを見守っている。
ところがである。烈々たる晴天のもと、山上二の丸付近に一頭のウマが曳き出された。
小早用の将兵は何をするのだろうと見ていると、二、三人の小者が姿を見せ、木桶に水を汲んで、ウマを洗い始めた。
「あっ。」びっくりしだ小早川軍は瞳をこらしたが、ウマを洗う仕草は間断なく続けられた。すぐ水源の確認が行われ、物理的に城中に多量の水がないのが確認された。
「あれは何か。」
小早川軍は判断に迷った。攻撃をかければ二、三日で落城するであろうが、それよりもわが戦略的判断の不確実さが悔やまれるのである。その時、城の下で、一人の老婆を小早川軍はつかまえた。老婆はその場へ引き据えられた。その時、小早川軍にひらめくものがあり、
「あれは何か?」
山上を指差した。問いただす足軽頭の右手には一条の利剣、左手にはひとつかみの小銭が鳴った。
「あれは、あれはお米を流しております。」
老婆はあえぎながら城を見上げた。
「ふうん。」拍子抜けした足軽頭が鼻を鳴らした。
「放してやれ。」
小早用隆景は仁慈の武将であり、無益の殺生はしない。山上では米を流すしぐさをやめないので、すぐ攻撃がかげられ、しばらくして落城した。老婆のその後の消息は誰も知らない。
(故 近藤晴清 談)
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28.マイモの伝承
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天正十三年(1585)の春のことである。豊臣秀吉と土佐の長曽我部元親の関係が怪しくなり、長曽我部と同盟関係にある、金子城の金子備後守元宅、岡崎城の藤田大隅守、生子山城の松木三河守安村等は両者の話し合いの成行きに神経をすりへらしていた。
そのうちの一人、松木三河守の館へ長曽我部元親からの特使が来て、今朝、盟約がますます強固に相互の間で守られるよう祈るとの要請があった。その際特使がみやげとして持参したのが市内川口新田地方で栽培され、新居のイモとしてその美味を称揚されたマイモである。その口上は、イモが大きくて美味である。しかもその茎は乾燥して壁に塗りこみ、一朝有事の際に取り出して食用に供するというのである。
最近、マイモの栽培は急速に減少したが、まだまだ栽培する農家があって、当時の伝承を語り継ぎながら、長曽我部元親やところの城主松木三河守の名前が思い出されている。
(角野新田 石川綾美 談)
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29.一つ目小僧
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昔、角石原のしもの長さわ落しという所で、一人の男が炭を焼いていた。ここで炭を焼いていると、いつも顔のまん中に大きな目玉ひとつしかない、一つ目小僧が天井から下の様子をうかがっていた。
ある晩仕事をしていると、一つ目小僧が小屋に入ってきて「わしの目を見い、わしの目をみい。」と小うるさくいう。この人は肝っ玉のすわった男で、「お前にゃ、目玉がたった一つしかないくせにえらそうにいうな。わしの目を見ろ。」といって、かたわらにあった炭をすくうヨソロを被って「なんぼあるか数えてみい。」とにらみつけた。
昔から一つ目小僧が「目を見い、目を見い。」というのにつられて、目を合わしにらみ敗けたら、一つ目小僧に食われてしまうといわれ、一つ目小僧はこれに驚いたのか、以後、
炭焼小屋に現れなくなったという。
(中村 伊藤静馬 談)
鹿森
記録によると、大永山中屋敷に滝本家があり、この地方を宰領していた。滝本家の当主甚右ヱ門が寛政十二年(1800)の十一月ごろ、山や畑の巡視中、突然木の間に異様な物を発見した。よく見るといのししの形をした岩であった。
これよりこの付近を「ししもり」、「しし岩」といい、大正七年(1918)『鉱山ハーモニカ長屋二七六戸完成』、昭和四十五年(1970)社宅徹収まで栄えた。
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30.決盛の般若心経
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南光院大闍梨快盛法印は実在の人物で、元禄七年(1694)別子銅山へ入山し、約十三年間山民の教化に当たって、宝永三年(1706)笈したが、晩年、蜂須賀藩追捕の手がゆるんだと見え、時析、銅山越えをして、立川山村の本村近藤家の敷居をまたいでおり、同家には快盛の真筆といわれる、切紙九字の妙諦を記した二巻の巻物があるが、それよりも快盛がとなえる般若心経の声音は数町四方に聞こえ、ために猛獣大蛇も快盛の般若心経を聞くと、あわてて、地中にもぐったと伝えられる。
般若心経の効験の偉大さは人口に膾炙するところであるが、長年の修業による快盛の験カが般若心経に憑依してその威力を倍加したものと思われる。
宗教詩人坂村真民氏の証言によると、昭和六二年六月物故した詩人高橋新吉の般若心経を誦する声音は、百雷の如きであったという。
(角野 越智南翔 談)
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31.ちきり淵
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昔、新居浜市角野の生子山城主松木三河守という殿様に、八千代と呼ぶかわいい娘がありました。その娘がお嫁に行くことになり、嫁入り衣裳の反物を機織りの達者な、城下町の「お松」と呼ぶ娘に頼みました。
その期限は十月の二日から十月の末日までということでした。「お松」はその日から、夜も昼もげんめいに織り続けるのでした。二八日に織った反物の数をしらべて見ると、まだ数反足りないので、またまたカのかぎり織るのでした。その翌二九日朝、考えて見ると、その日が期限でした。というのは、昔の旧暦十月は二九目が最終の日でしたから。
夕方まで織ってもだめだと思いました。「お松」は、約束を果たせないことを悲しく思いました。こんなことなら初めにお断わりしておけばよかったのにと、右手に「ちきり」を持ったまま考えこみ、一人涙を流して泣くのでした。
「お松」は「ちきり」を手にしたまま西に向かって走りました。そうして龍川の流れの岸のほとりに座りました。
底の知れないほどものすごく青く澄んだ水、それを一人で見ていました。水の底には美しい世界があるのだ。「お松」はそのように思いました。
ついに身をおどらせて、深い淵に身を投げました。
それからのち、夜になると、この淵のどこからともなく、「お松」が機を織るときの「ちきり」の音が間こえて来るようになりました。
その後、誰いうとなく、この淵を「ちきり淵」と呼ぶようになりました。
(伊予路の伝説 合田正良 著)
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32.修験王の大蔵院さま
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延宝年間(1673−1680)ごろ、大蔵院の河野栄尊は石鎚山の大先達として、東予第一の修験者として信望があった。彼は角野町篠場大蔵院深谷寺の修験者であり、河野一族の総領でもあった。世にいう大蔵院中興の英主でもあった。
また石鎚山先達師に宇摩郡北野村金剛院法養法師とは親友であった。石鎚登山の時は金剛院は喜光寺の薬師堂で、到着した合図にほら貝を吹き、ひと息入れて大蔵院の方へ出かけ、いっしょに登山するのが常であった。
金剛院はときどきずぼらをやることがあった。
あし(足)は篠場の大蔵院
なぜ迎いに金剛院(こうんのぞい)
この歌を金剛院にト渡すと彼は苦笑した。金剛院は薬師堂で横になって、合図のほらを吹いているのを、たしなめたものである。大蔵院の眼力に敬服したという。
栄尊法師は、いわば山伏士で武力もあり、鉱山を開発し、農業を興し、財的にも富み、地方の有力者でもあった。栄尊法師は悪病退散、五穀豊饒の祈祷をした。農業の害虫オゴロ退治の名人でもあった。
秋のイモ収穫のころ、栄尊法師が足踏みをすると、彼の法力でたちまちオゴロは退散し、おおいに農家は助かった。イその成長の時期には、東予地方一帯の農家から案内を受けて、てんてこまいのありさまであった。
彼は遠く土佐国や阿波国のお百姓からもオゴロ退治を頼まれる始末で、伊予の大蔵院様として、生き神のように信頼され尊敬された。栄尊法師が商売繁昌で出向できない時は栄尊の古草鞋をもらいうけ、それで畑を打つとオゴロが退散したという。オゴロ(モグラ)は大蔵院をもっとも苦が手としたらしい。栄尊法師が使用したといわれる薙刀は今も大蔵院深谷寺に秘蔵されている。
(郷土の伝説十三特選集 故 近藤晴清)
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33.薪売りの子供と大蛇丸
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昔、新居浜市の角野に、孝行者で賢い子供がいました。
早く父母が亡くなって、祖母と二人ぐらしでした。田畑がなく、山でたきぎを伐ってこれを町に売り歩き、やっとくらしをたてていました。
その頃山の中には、恐ろしい大蛇や、動物が棲んでいました。子供は身を守るために、刀を欲しいと思い、その製作を近所の鍛冶屋に頼みました。
心のよくない鍛冶屋は子供に向かい「ではつくってあげるから、刀ができあがるまで、毎日たきぎをひとたばずつ持っておいで。」といいました。
子供は喜んでたきぎを運びました。一月もたって、やっと一振りの刀をつくり子供に渡しました。子供はたいへん喜び、大きな刀を背に負い、安心して毎日山へ行くのでした。立川の奥の方には、大蛇が棲んでいるという「ふち」がありました。人々は「蛇淵」と呼んで恐れていました。
青々として底の知れないほど深い淵で、そこにはたくさんの大きな魚が泳いでいました。
子供はそれを釣って見たいと思いました。
ある日釣りの道其を用意して、たきぎを伐ったあとで蛇淵に行き釣り糸をたれて見ました。大きな魚がおもしろいほど釣れました。
子供は背にたきぎを負い、手に魚のかごをさげ、にこにこしながら家に帰りました。婆さんもたいへん喜んでくれました。
子供は毎日それを続けました。そのため毎日のくらしはいくらか楽になりました。
子供が蛇淵で魚を釣ってくるということを聞いた町の人々は評判しました。それもそのはずです。昔から蛇淵に釣りに行った人は、みんな大蛇にひとのみにせられ、帰って来た人がなかったからです。
生子山城の殿さまもこれをお聞きになり、一人の士にそっと子供のあとをつけさせ、子供が蛇淵で魚を釣っている様子を見させました。
士はびっくりしました。子供が蛇淵のそばの岩に腰をかけ、魚を釣り上げるたびに、子供の頭の上には、恐ろしい大蛇が大きな口を開けて、今にも子供をひとのみにしようとしているからです。
それよりも驚いたことには、大蛇が子供を呑もうとするたびに、子供が背負った刀が鞘を離れ、大蛇に切りつけるのでした。そのため大蛇は子供を呑むことができないのでした。
士はそのことをくわしく殿さまに話しました。殿さまはそれを聞いて感心しました。
「それは、あの子供が孝行者だから、きっと神さまが守ってくださったのであろう。」そういって、子供と婆さんをお城に呼ぴ、いろいろごほうびの品をくださった上、殿さまのお側付きになるようにという仰せが出ました。それから、婆さんと子供はたいへん幸せにくらすようになりました。
また子供の持っていた刀は「大蛇丸」という名を付け、お城の宝物として倉におさめられたのです。
(伊予路の伝説 合額正良 著)
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34.餅をつかん家令
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生子山のお殿さんは、村の人がお正月の餅をついていると、年具を納めん家からは、杵を取りあげたという。
それで「餅をつかん家令」の家があった。正月過ぎて餅をついたともいう。
(高祖 鈴木正時 談)
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35.光明寺の埋蔵金
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私の幼少の頃。旧暦の三月三日のお雛祭りは、私にとって楽しい思い出の一つであった。
それというのも、母の手づくりのべんとうを持って、家族総出で山登りをたものだ。
私は当時、胸のうちに、いいようもない期待と望みとを秘めておった。脳裡は「埋蔵金」とか、「南天の木」とか「鳩の鳴き声」とか走馬灯のようにぐるぐるまわっていたということ。なぜ、そんな情念のとりこになったかを、今日はお話することにしよう。
昔、豊巨軍の四国征伐の析、西楠崎の南西およそ七キロメートル方向の山頂に光明寺という古い寺院があったと。その戦の時、豊臣方の大将が光明寺を焼打ちにしたと。燃える火の粉をかいくぐって裏庭の南天の木の下に、住職は寺の大金を埋め、逃亡をはかったが、運つたなく捕われの身となり、その埋蔵金のありかを白状するよう拷問にかけられたが住職は「知らぬ、存ぜぬ。」の一点張りで押し通そうとしたが過酷な責めにたえられずとうとうついには息絶えたと。
それからというもの、月の三日には、一羽のハトがどこからともなく飛んで来て、その南天の木にとまり、「くっくっ。」と鳴いてやまないので、在所の人々はあれは住職の悲業の死をあわれんで鳴いてござると。いつとはなしに口から口へ伝わったと。そのうわさはうわさを生み、ハトが南天の木にとまって鳴いている姿を見たらいちやく大金持ちになるとか。まことしやかに伝えられたそうな。
こんなはなしもまんざら根拠がないわけではないように思えるふしがある。その拠点のいくつかをあげてみよう。
@ 馬場(ウマをつなぎ止め休めた場所)、東楠崎南方五キロメートルの地点に約九○坪ていどの平担地があり、在所の人々は「馬場」と呼びならしていたこと。
A
腰水(将兵が体を清めた水場)、馬場に近い谷用で渦まいた瀬があったこと。
B
鎧ふり(将兵がほこりを払った場所)、腰水の近くに将兵が腰かけたという石積みが今日もあること。
C
見張り台?山頂の一番台、二番台と呼ばれ敵の侵入に見張りを立て、非常の際はのろしをあげて急を知らせたのろし台としても使われた形跡が残っていること。
以上のように地名か名称が伝わり残っていること。また光明寺の屋根瓦と思われる瓦が発掘されたとか。その瓦を見たとかいう。在所の年寄りは、事実あったこととして伝承していること。
最近、アマチュアの考古学者ばやりでにぎわっているようであるが、たいへんけっこうなことと思う。それぞれ伝承された話とか、ことわざとかには、くめども尺きない人間味というか、人間の渇をいやす滋味がある。「温故知新」古きをたずねて新しきを知るとあるように、いろいろ埋没している民話とか、伝説とかを掘りおこしていきたい。
(神郷 話者 横井光良 再話者 土利野静正)
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36.光明寺の地名
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昔、豊臣秀吉の命令で小早川氏が四国に攻めてきた時のこと(約四百年前)、ここらが敵と出遭った所で「落合谷」。そっちの池の方で追いかけたりしたので「おわいたごえ」。
それから村の中を北に行ったクラブ(集会所)のあるあたりで刀をたてかけてひと休みしたから「太刀道」といい、粟島さんの北の谷へウマをかくしたので「駒谷」という。
その当時戦死した武者を埋めて石積みしたのが「お塚はん」と呼ばれてたくさんのこっている。
(光明寺 村上トヨ子 談)
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37.光明寺とわが祖先
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泉川校区の東端に光明寺という地区がある。昔、この村の束の端の北山のなか、ハリノ木谷の奥の詰にほどちかい堂平(どうなる)と呼ばれる谷間にお寺があったといわれる。
子供の頃、父の供をしてよくたきぎを採りに行ったことがある。その時に、お寺の屋敷跡らしき所にもなんどか行った。そこには古い瓦のくずや、山石でない石、そして奥山では自生しないタケやヤマブキの花なども咲いていた。
今はたきぎも不用となり、村の人々も山に入らなくなった。その結果、山も荒れて容易に人を寄せつけず、一度たずねて見たいと思うのだがむりのようである。
光明寺といわれたこの寺は、地名を残して現在は西条市に移転している。いつの頃移転したのかは定かではないが、戦後お寺を新築した際、本堂の下に五万両の埋蔵金があるがも知れないと話題を呼んだ。
わが村にいつの頃このお寺が建立されたのか不明であるが、祖先のいい伝えにより判断すれば、南北朝時代の頃にはあったのではなかろうか。
足利幕府が恐れをなして禁止したといわれる「念仏踊り」を、隠れキリシタンのようにひそかに現在にまで伝えている光明寺という名のお寺が京都にある。その頃の僧侶には、ずきんをかぶり、なぎなたで武装した者がいた。南北朝の戦乱も六○年の長きに及び、南朝方に属していた田坂兄弟も北朝方に敗れてから、この地に逃れ、光明寺の庇護を受けたといい、お寺に五万両の軍資金を隠したとも伝えられている。
明治維新の頃、この村の戸数は四三戸で、そのほとんどが田坂姓であった。
(光明寺 田坂久 記)
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38.光明寺でタヌキに化かされた話
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大正四年(1915)頃、母が船木池田の先生宅へ見舞に行った。久保田からは、籠池(松原町)のそばを通る。「金子五軒家に池築作人 溜りもせぬる籠池を」と、古くから歌われて、タケの編みかごのように水がたまらぬ池というのが名のおこりである。
籠池を南へ過ぎると、喜光地から金毘羅街道を東ヘ、国領川を越えて国領を過ぎ池田ヘ着く。途中は野や畑、カキ園などで、人家はまばらである。
帰路は、御返しの品としてするめをいただき、坂の下の大師様から光明寺の粟島さんにもお詣りした。晩秋の日は西に沈み始めた、二時間くらいも歩いたが道がわからず、畠で仕事をしている百姓に声をかけた。「それや、おばはんタヌキに化かされとらい。こっちヘこう行けば帰れるから。」ど、教えてもらって家へ帰ったが、二、三日の間は体の具合がおかしかった。みやげのするめほしさにタヌキに引っばられて弱ったと、母が話していた。
(金子 星加金成 投稿)
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39.和井田池の地蔵さん
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あのお地蔵さんをすえた由来は、昔はね、なんぞ辛いことがあったら身を投げる(投身自殺をする)ので、あのお地蔵さんをすえて供養したら、それから以後身を投げる人もなくなった。
たとえ死のうと思い飛び込んでも、誰か人が通りかかって助け上げたりした。
また、お地蔵さんを建ててから、おかげで悪病もはやらなくなった。
私は朝起きたら、日天さんと御先祖さまとあのお地蔵さんをいつも念じています。
(光明寺 村上トヨ子 談)
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40.ちょもはん狸(一)
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ちょもはん狸が坊主になってでてきたそうな。
うちのおじいさんがナスビを売りに行きようると、坊さんがおおぜい歩いているので、丸井(鈴木家)で法事でもあるのかと思ったが、近づくといつのまにかスーと消えてしまったという。
それはちょもはん狸の化けた坊さんだったということで、おじいさんはそれにびっくりして何日も寝込んだそうだ。
(光明寺 田坂マサヨ 談)
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41.ちょもはん狸(二)
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和井田池のお地蔵さんの西側に大きなアカマツの木があって、その下にちょもはん狸がいるといわれていました。おおぜいの人がだまされたといいます。
村の人で、お不動さんを熱心に信心していたおばあさんがおられました。ところがある日のこと、そのおばあさんにちょもはん狸がのり移って、「今、にごみ(五目飯)を食べてきたとこじや。満腹満腹」
と、しゃべり始めたということです。
「ひやのおばはんのにごみはうまい。じょうずにたくのんじゃ。たった今食べてきたとこじゃ。」
と話したもので、さっそくにその家の子が私の家(ひやといっていた)に、本当ににごみをたいているのかどうかを確かめにきました。
ところが、本当に私ら家族がにごみを食べていたので驚いて帰って行きました。
全く不思議なこともあるものだと、姉たちとうわさしました。
(光明寺 村上トヨ子 談)
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42.泉川一番地・ドワタニ
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ハリノ木谷が泉川一番地になっている。その奥阿島に寄った方を「ドワタニ」という。
そこが光明寺のあった所で、昔はよくタシッポやゼンマイ、フキなどを採りに行った。古いカワラも積み重ねてあったが、今は山道も荒れてゆげなくなってしまった。
そのドワタニでは正月に金の鳥が鳴くということでしたが、徳の高い人でないと金の鳥には出会えないと、母がいっていました。
昔はおこんぴらはんみたいな大きな家が建っていたという話です。
(光明寺 村上トヨ子 談)
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43.日糞の皮剥ぎ谷
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光明寺池の北側斜面に日糞の皮剥ぎ谷という谷がある。谷といえば谷かなあ、と思うほど浅い谷である。
その昔、池を築いた際に西条藩士が監督にやってきて、人夫を酷使したという。人夫は堪えられなくなると大便のための休憩を要求したという。ところが、そうなんども糞も出ないし、本当に脱糞しているのかどうかを藩士が調べに来るので、先客がした糞が太陽で黒く皮をかむったようになっているのを、その黒皮をはいで、新しく今したように見せかけ藩士の目をあざむいたという。
それで日糞の皮へぎ谷と呼ぶのである。
先人の苦労かくの如し。
(光明寺 田坂久 記)
上泉州村・下泉川村
この二つの村は昔は一つの村で、別名村呼んでいたが、その後泉川村と改まり、又後に上下両村に分れたといわれている。寛文六年(1666)の中村旧庄屋与衛門の古帳には、上泉川村・下泉州村となっているので、両村に分れたのは寛文四年から同六年の間であろう。又泉川と名づけたわけは、両村に名泉があるので、それをとって村の呼び名とした。(西条誌)
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44.おかめぶし
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戦後大シケで光明寺池がこわれた。堤の底もやぶれてたいへんなことで、そのために連日みんなでおかめをついた。何人もの人で石につないだ縄をもってひっぱるのだが、縄が切れて池に飛び込んだ人もいる。
家を建てるのにコンクリートを使いだしてから、このおかめつきも段々となくなった。
ここの屋敷は、芽出度いやしきヨー
ツルトカメとヨー ソラ舞をまう 舞をまう
ツルとカメとは、そういうてもうた
お家はんじょうと いうてもうた /\
旦那大黒 おかみさんはエビス
中にできた子は 福の神 /\
ここのお家は 乾のスマに
小判なる木は ゆさゆさと /\
石の地蔵さんに 振り袖きせて
奈良の大仏 ムコにとる /\
奈良の大仏 よこちょに抱いて
お乳のませた 親みたい /\
わしとお前と こうらのマメよ
とぼかはしろか はらきろか /\
わしとお前は はおりのヒモよ
かたく結んで 胸にある /\
お前百なら わしや九十九まで
友に白髪のはえるまで /\
ついてきなされ このちょうちんへ
けしてくろうは させやせぬ /\
わたしやあんたに あのどこまでも
ついてゆきます たけやりで /\
土佐はよい国 みなみをうけて
さつまおろしを そよそよと /\
このような歌をうたいながら、一日中くる日もくる日もおかめをついた。田んぼに水が必要なのでみんな必死だったんよね。
(光明寺 田坂マサヨ 談)
上泉泉村の枝在所として 喜光寺 東田があった。
下泉川村の枝在所として 永田 光明寺があった。
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45.かめの子ぶし
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これはずっと昔、松原の池をついた時につくったものらしい。私の父もよく歌っていた。
長田おとよは 日碁のカラスよ
森をめがけてよ アラ飛んでゆく /\
おかめぶしともいったが、これとは別に、石の口つく(柱石をつく)時には、少しちがった節で文句もちがっていたように思う。
(光明寺 星川豊一 談)
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46.高丸婆さんの水使い場
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光明寺一丁目の東端、坂の下と境を接する山を高丸といった。その山の麓に、高丸婆さんの水使い場と呼ぶ、細長い池があった。幅ニメートル、長さ四メートル、深さ五○センチメートルぐらいな、池というより水たまりといった感じの所だった。
今は埋められ七宝台団地になった。ざんねんなことであるが、爺さんの話では、この池はどんなに日照りがしても、ぜったいにト水が枯れたことはないという。高丸婆さんは、このの池で水を使っているところを、うしろからイノシシに突かれて死んだそうである。
爺さんは見たこともない悲しげな顔で話していた。きっと爺さんの子供の頃の婆さんだったんだなあと思った。
それにしてもそのあたりは大木生い茂る深山であったろうに。高丸婆さんは一人ぼっちでどんなくらしをしていたのであろうか。想像にあたいする所であった。
(光明寺 田坂久 記)
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47.新居浜にもツルがいた
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私の爺さんは若い頃、鉄砲が趣味だったらしい。イノシシを撃つ要領や、イノシシを撃った自慢話をよくしてくれた。お荒神さんの前のタケ薮の入口でツルを撃ったら、ちょうど木挽屋の婆さんが通りかかったのであげたという。婆さんは病気だったので、早く達者してもらおうと思ってあげたといっていた。それが最後で、それ以後ツルは飛んで来たことはないえや、といった爺さんの話に少し腹を立てたおぼえがある。
光明寺池の東につらなる谷々を池の奥と呼んでいる。
その池の奥で爺さんはシカを一、二頭撃ったそうである。
それから池の奥にはシカは一頭もいなくなったといっていた。
昔の人はばかなことをするもんだ、せめて二、三頭は残しておけばよいものをと、子供心に思ったものである。
鉄砲は火縄銃であった。婆さんに火縄は何でつくったんと聞いたら、タケの皮を鉈で薄くこさげてそれを縄に編んだ、爺さんによくつくらされたもんじゃといっていた。
爺さんの若い頃、それは明治一○年から二○年頃のことである。
(光明寺 田坂久 記)
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48.磯八かん谷
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光明寺池の南側に磯八かん谷という谷がある。これはかなり奥深い谷である。
昔、磯はんというたきぎ採りの名人と、加藤太はんという箕を編む名人がいた。
二人はたきぎ八かん(一荷はたきぎ二束)するのと、箕八枚編むのと、どちらが早いか試合をすることになった。
その結果、箕を編む加藤太はんは、最後の箕の縁取りだけ負けた。
この時、磯はんがこの谷でたきぎを八かん(荷)したので、それから磯八かん谷と呼ぶようになったのである。
(光明寺 田坂久 記)
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49.長尾越えの一本松
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私方では現在の川東地区を総称して、キクウラ(北浦、北裏?)と呼んでいた。秋の八幡祭を、キタウラ祭とともいった。そのキタウラヘ行く山越を長尾越えといい、子供の頃は父と魚釣り、アサリやズボやハマグリ掘りによく通った。祭の見物にも行った。
長尾越えは池や谷に昇り口があり、尾根づたいに多喜浜駅の裏に出る山道で、山越えにしてはなだらかな、らくな道であった。
そのなだらかな坂道を昇りつめた所に一本松があった。当時一本松といえば、このマツのことであった。
幹はふたかかえぐらいで、そう高くはなかったが、山頂の木らしく風雪にたえたであろうと思われる枝ぶりであった。
そこからしばらく平坦な道を行くと、下り坂となり海が見え出す。海が見えるとうれしかった。
長尾の一本松とて人々に親しまれたマツだったが、私が復員した時なくなってた。
戦時のお役に立ったらしい話であった(マッヤニを採ったのである)。
今はおそらく通れないであろう長尾越え、その名も消えてゆくのであろうか。
(光明寺 田坂久 記)
和井田池
池田の池が寛文九年(1669)の大洪水で決潰した時に、下泉川村・光明寺の市左衛門が池田の池普請に功績があったので、この和井田池を市左衛門の田地のそばに築いて賜わった。
この池を市左衛門池ともいう。
光明寺は下泉川村の枝在所であった。(西条誌)
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50.馬神さん
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わたしらの先祖が殿さんからほうびとして何かほしければというので、それでその時にウマをもらったそうです。
ところが駒谷へつないでいたらオオカミに食われたので烏神さんとして祀ったのが、今も一族の屋敷内にある。
(光明寺 星川豊一 談)
註 星川家伝来の巻物を見せていただきましたところ、一柳公が播州の小野へ国替の時、「おなごれの別の盃」を受け、また「黒鹿毛駿馬壱疋」を賜わったということが記してありました。
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51.猪の池の三匹の白蛇
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泉川の上東田にある「猪の池」には、夏に子供たちの水浴びが終わると、池一面に「ジュンサイ」が生えて冬も枯れた葉が池をおおっている。
春には芽が出て葉が池面をおおうけれども夏には人の泳ぐ所から「ジュンサイ」は見えなくなり、水面下に沈んでいるようである。(この「ジュンサイ」の生える池は古い池だといわれ、池田の池へ移植をしたが枯れてしまい、若い池では育たないということである。)
その「ジュンサイ」の中へ入ると、夏であろうと、冬であろうと、人の足にからみついて動けなくなり、ついにはおぼれてしまうというので、村人たちはふだんから注意を呼びかけていた。また池で死をえらぶため入水する人もおったと思われるのであるが、不思議なことにこの「猪の池」で死んだ人はなかった。これにはこんな話が伝えられている。
何かの事情で世の中をはかなみ、この池に入水自殺をしようとしても、どこからともなく「三匹の白蛇」が現れて、その人にせまるのでその方が恐ろしくて、逃げ出してしまって死ねなかったのだ、ということである。
また夏この池で泳いでいて、中央の深い所へ行くなど危険な状態になる寸前には、「三匹の白蛇」に追われて浅い所へ泳ぎ着いて、危険な目にあわないですんだ、ということもあった。
そして池の土さらいなどでお百姓の人たちが池の水を抜いて作業をしていても、病弱な人が疲れていると「三匹の白蛇」に追い返され、家に帰りぶじだったともいわれている。
このように「三匹の白蛇」に危険から救われたという人はあとを絶たなかったのであるが、たまたま、昭和八年に、ある人が病気のため世をはかなんで「猪の池」に入水しようとして「三匹の白蛇」に助けられた、と話した人が三日後に上東田越えの山の下にある「かわらけ谷」の池に入水した時、かけつけた人々の間で「三匹の白蛇」の話でもちきりだった。
人々の話では、その白蛇は、上東田墓地の南端にある、某家の若官さんのカシの木から出て来て、またその木に帰るといううわさが、白蛇から助けてもらった人たちから出ていたそうであるが、その若官さんをお祭りしている家の人の目には、へビの姿も見えず、何匹おられるのかも知らないそうである。
今はその「猪の池」も、ボールオークラの下に埋もれてしまい、危険もなくなったので、若官さんのカシの木に棲んでいるという「三匹の白蛇」も安心した毎日を送っていると思われることである。
(泉川公民舘ふるさと泉川補充編より)
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52.又兵衛屋敷
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上東田のお堂の南の方に、私らの先祖の屋敷があって、「又兵衛屋敷」といっていたという。現在地(中東田)にきたのは何代も前のことだが、今のように近くに家もなく、下東囲の「こうだいはん」のやぶもよく見えた。
雨の日などこうだいはんのあたりを「タヌキがちょうちんをつけて歩きよる」??などと、年寄りがよく話をしていた。
(中東田 佐々木光義 談)
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53.東田大師堂の六地蔵さん
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文化四年(1807)の三月の初め、気候も春めいてきたある日の夕方、国領川の舟渡しを渡って道岸を経て、東囲から長野への遍路道を通っていた中年のお遍路さんが、猪の池の西の幸右衛門の家の前で足をとめた。これから先に行っても家もないらしいので、一夜の宿を頼もうとお首姓仕事から帰っていた家の人に、その旨を告げると、家の人は、
「家が狭いがどうぞお泊りください」と、お遍路さんを手厚くもてなした。
夜、寝物語りに幸右衛門は、
「北隣りに自庵があり、修験者だった先祖が帰農する時、禅宗のめ大師様をお祭りしてあり、庵主さんにお守りしてもらっているのですが。」
と話す。と、ピー寝ていたお遍路さんは飛び起きて身づくろいをして庵に行った。庵主さんとどんなお話をしたのか、夜もふけて帰って来て、
「この地区の戸数は少ない相ですが、死者のとむらいは庵主さんがするといわれています。六地蔵さんが、いられないのは死者に礼を欠くことになります。どうでしょうか、私に六地蔵さんをつくらせてくださいませんか。」
というのである。幸右衛門はいぶかしく思いながらも、
「それでは、どうぞお頴いいたします。」
と、お願いをした。をした。翌日庵主さんとも話し合い、西条まで行き石を二、三日がかりで買って来て、そのお遍路さんに六地蔵をつくってもらうことにした。
お遍路さんは幸右衛門の家と庵に寝泊まりして、毎日毎日精魂をこめて石をきざみ、ついに六体のお地蔵さんを完成したのが、四月も暖かい山ツツジの咲き乱れる頃でした。六地蔵さんができると、お遍路さんは幸右衛門と庵主に、
「長い間ごめいわくをおかけしました。」
と、挨拶もそこそこに、東の方に旅立って行ったということです。
その後嘉永初年(1848)に、死者を埋葬する墓地山や庵が地区に寄進され、以後堂も新築されて六地蔵さんは堂の東入口北側に西向きに鎮座せられていたが、昭和五三年現在のお堂改築の時、南入口西側に移り、北面しておられる。
六地蔵さんには右から
「奉納文化四卯今月・日本・回国五穀成就・大乗・妙典・天下泰平国土安全」
の文字が刻まれており、台石二つには、
「諸願成就・行者春成房」
と彫りこまれているそうである。
この六地蔵さんは、今も地域の人々の厚い信仰をうけられて、世の中や人々を、静かにお守りくださっているのである。
(泉川公民舘ふるさと泉川補充編より)
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54.お塚はん(膳塚)
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うらが小さい頃にはお塚はんの近くに大きなエノキがあって、実(エノミ)をよくちぎりに行った。エノミは赤くうれるとおいしいのでよく採って食べたもんだ。
そこのお塚はんは、お膳を貸してくれるというので入用の前夜、「何人前お願いします。」とお願いしておけば、翌朝必要な数だけそろえて出しておいてくれたそうな。ところが、いつの時代か、借りた人が割ってしまい、貸してくれぬよう仁なったという。
お塚はんの付近一帯は古墳が多くて、土器などがよく転がっていた。
(中東田 佐々木光義 談)
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55.東田の「猪の池」
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天正十三年(1585)、豊巨秀吉の命をうけた小早川隆景は、今治付近に上陸し西条市の現在の高峠・高尾城を攻め、七月十七日に西条市野々市原の決戦で、新居・宇摩の武将がほとんど戦死して、秀吉の四国征伐の勝利が明らかになった。その後小川用勢が東部の新居・守摩に残る砦を攻め壊滅作戦の行動にでた。
二日間、下島山で休息した一隊と、海路宇高海岸に上陸した一隊は、一方は金子山砦を攻略して生子山砦の攻略をはじめた。上睦隊は垣生八幡神社の南西にあった富留士居砦を攻略し郷山の岡崎砦攻略にかかったといわれている。
富留土居の高橋丹後守の留守隊と岡崎山の藤田大隅守の軍勢は、要害堅固な生子山城に集結しようと南へ進んだのであるが、東田へ入った時、生子山砦を攻略した一隊は上陸隊と合流のためか北進し、東田で敵味方が遭遇し決戦となり、新居はほとんど戦死、小早川勢にも多数の死傷者が出たといわれている。・
決戦後は敵・床方のしかばねが東田の地域全般にわたって散乱していたといわれ、勝利の小早川勢が集結して槍や太刀を池で洗ったので、池の水が血で紅になったそうである。
それからその池の名を「血の池」と呼んでいたが、のちに縁起が悪いということで「猪の池」と名を変えたということである。猪の池は今では埋めたてられてしまっている。
今でも東田地域のあちらこちらに、当時の戦死者のものと思われる塚石が立っている。
この話は、この地方では最後の悲惨な戦として語りつがれてきたものである。
(泉川公民館ふるさと泉州補充編より)
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56.高せんぽう
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伊藤のおばあさんが、二五、六年前になるかしら、朝とうに、さあ何時ぐらいじゃったかしら、まだ暗い時分に田んぽに行ったんよ。
うちの地のまくらに野つぼがあった近くで、こうだいはんのねき、南の方に伊藤さんの地があって、田に水を入れてうちの野つぼの所まで戻ってきたらしいんよ。
そうしたらね、いっしょについてきていた黒色の飼い大が吠えたそうな。それでうしろをヒョッと見たら、背のものすごい高いものがいるんで、おばあさんはびっくりしていちもくさんに家へ戻ったんと。
おばあさんは嘘をいうような人ではないけね。
(下東田 徳永富貴子 談)
よう、「でるぞ、でるぞ。」いうよったよね。せいたかぼうずや、高せんぼういうて、あないいうて、、私ら子供時分にはよういいよったよ。
(下東田 矢野イチ子 談)
矢向きのこうだいはんの所は「イクチ千匹」といっていた。
(下東田 伊藤初 談)
こうだいはんや石ごうらあたりはイタチの巣だった。
今は家が建ってしまっておらなくなったが、それでもまだイタチを見ることがある。
(下東田 田辺宜雄 談)
高柳のタヌキ
夜になるとタイマツを持ってウナギ取りなどに高柳泉へ出かけた。五、六人づれでいったのだが、年の若い者がカゴもちで行った。高柳も今よりももっとうっそうとしていた。ある夜のことツブテが飛んできたこともある。また雨がサーとふってきたので「もうかえろうか。」といっていると、向うから椅麗な芸者みたいなあねさんがくる。カランカランと下駄の音をさせながら、着物の色もあざやかに見えたので、これはきっと狸の化けたのに違いないと、仲間内のだれかが石を投げると、一ぺんに消えてしまった。大正時代のことである。矢
野益治 談
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57.こうだいはん
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こうだいはんはイクチの巣であったが、橋本義達さん(相撲のシコ名は千歳川、その前には山田用とも名乗っていいた)の話では、本当は幸太夫という上方の役者を祀ってあるとのことだ。
(下東田 田辺宜雄 談)
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58.田畑の地名
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うちの畑はこうだいはんの近くにもあった。今の道(観音原線)の東側を「ヤムキ」や「ミヤノジ」といっている。戦争でもあったので「矢向」というのかどうかよく知らない。
柳原の方の畑には「ぬ」があり、作物がよく実らなかった。「ぬ」というのは銅山川から流れてくる、青白い砂のことをいうのである。
橋本家には「ぜにがめ」という名の田もあった。銭が出たという話は聴いていない。
(下東田 藤田信男 談)
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59.小豆洗いタヌキ
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東台神社の前は、今は変形の四又路のようになっているが、昔は中にある鳥居がもっと西側にあった。
池田池の水路と中泉からの分水が現在の東田保育園あたりで落ち合っていたが、その少し南側に小さな石橋があって、その東端に鳥居があった。そのあたりの土手筋には小竹(コダケ)が繁っていたりした。
水の流れる音や、タケの棄などが風にゆれる音だったのかも知れないが、よく通りかかると「シャラシャラ」と聴こえ、小豆洗いのタヌキがおるんだと、みんな恐れていた。
ある日、姉が中東田の新店(しんみせ)ヘ買い物に行っての帰り、お宮の前(自治会館の所)できれいな人が踊っているのを見かけたという。
よく見ようと近づいてみると、いつの間にか消えてしまったという。キッネかクヌキがわるさでもしたんだろうとよく話していた。
(下東田 田辺宜雄 談)
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60.怪火
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現在のように家も建ち並んでおらず、うちから国領用の土手もよく見えていた頃の話だが、・昭和橋の下は、コウゾやミツマタの草木がよく繁っていた。
ある晩のこと、家の外からその土手の方をなにげなく見ていると、下の松林のあたりから青い火がついたり消えたり、二○も三○もの火が上流にあがって行った。何の火だったか知らないが、このようなことは二、三度経験した。
(下東田 田辺宜雄 談)
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61.オトワタヌキ
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国領川の下流、郷山のところに釜の口があります。川東地区への貴重な水を取り入れていますが、ここらあたりには「オトワタヌキ」がいたそうです。
かしこかったそうで、ちょっとした小石のようなものでもじょうずに使って、べんとうの中味などに化かしたりしたそうです。それで垣生から来ていた塩売りさんは、午後も三時過ぎればだまされるとこまるというので、早々に帰っていました。
(光明寺 田坂マサヨ 談)
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62.タヌキに化かされた人を覚さますましない
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師走もおしせまり、どこの家でも「しめ飾り」が始まる頃となった。泉川村外山でお百姓の吉っあんの家でも「しめ飾り」の準備で、いそがしそうにしていた。吉っあんは、毎年観音原の東の山へ門松や山草を採りに行っていた。
今年は二、三日前からの雪で、吉っあんも山へ行きそびれていたが、今日は道こそ雪が積もって歩きにくいが雪もあがっているので出かけることにした。
息子の秀は吉っあんに、
「山にや雪があるきん、すべらんように気いつけるんぞな。」
と、気づかっていうと、吉っあんは、
「おう、おう、山も道もよう知っとるきん気づこうことはないわい。」
と、返事をしながら、足ごしらえは特に念を入れてしっかりとし、腰に鎌をさし手拭でほっかむりをして、秀に、
「うらあ、いてくるきん帰るまでに、しめ縄をしやんとのうとくんぞよ。」
と、言い残して、勝手知った道をいそいそど出かけて行った。
秀は、吉っあんにいわれたとおり、納屋からワラのきれいなのをより出してきて、しめ縄をないはじめた。神さん棚・荒神さん・水神さん・お便所・おもて門・うら門・納屋・牛小屋・荷車用・…と、いろいろと大きいものや小さいもの、長いものや短いものなど一生懸命に、一つ一つていねいに全部のしめ縄ができあがった。
毎年、ちょうど全部のしめ縄がないあがるころに、吉っあんは、にこにことしながら、ころあいの門松や山草を背負って戻ってぺるのであるが、今日はまだ戻ってはこない。
秀は心待ちに、昔っあんの戻ってくるのをまだか、まだかと待っていたが、そのけはいはない。家の者も、少し心配になってきて、
「まさか、道に迷うこともあるまいに、ひょっとして雪にすべって,・・・・いったいどうしょんぞいのう。」
と、みんな吉っあんの出かけて行った雪の観音原の方ばかり見守っていた。
どれほど時間がたったのだろうか、東の方を見ると雪の道を吉っあんが二人づれでとぼとぼともどってくるのが見えた。つれの人は誰だろうと家に帰りつくのを待ってよくみると、いつも魚をあきないに来るお民さんに、手をひかれてつれてきてもらったのである。
お民さんは、
「わたしや、あきないもしもうて、家に戻りよったら吉っあんが雪が積もって道のようになった線路を東へ歩いてくのを見かけたきん、『吉っあん、どこへいきよんぞな。』と声をかげたら、『うらあ、家へもどりよんよ。』と、返事をしいしいなおも東へ歩いて行くので、そっちへ行ったらあんたの家とは反対の方ぞよ。となんべんゆうても、『うんにや、こっちよ。』とゆうて、きかんきんつれてきてあげたんぞな。」
と、あきれ顔で話すのであった。
家のものはお民さんに、
「よう、つれてもどってくれたもんよ、おおきに、おおきに。」
と、お礼を述べ、吉っあんは何を聞いても夢うつつのようで、はっきりとした返事が帰ってこない。
そぱでこの様子を見ていた「よしばあさん」が大きな声を出して早口で、
「こりゃあ、タヌキにばかされとる、秀よはよう納屋へ行って箕を取ってこい。」
と、いって秀から箕を受け取ると「よしばあさん」は、吉っあんを戸口に立たせておいて、大きな声で、
「おん、ばざら、だとばん、おん、ばざら、だとばん、おん、ばざら、だとばん。」
と、何やらまじないのようなことを唱えながら、吉っあんを箕で三べんあおいだ。
よしばあさんは、
「これでよっしゃ。タヌキはもう逃げて行ってしもうた。」
と、吉っあんに話しかけた、吉っあんは夢からさめたように、目をばちばちとしばたかせながら、「うらあ、何をしよったんぞよ。」といいながら、いちぶしじゅうを話した。どうやら吉っあんは、雪でおおわれた鉄道の線路を道と思いこみ歩いていたことがわかった。
家のものは、吉っあんが元気をとり戻したことを喜びあい、お正月の準備で気ぜわしそうにしていた。
昔から観音原を通る人は、よくタヌキに化かされたということである。
(外山 大西秀夫 談)
星原市
古代の市場の代表的なもので、星原明神の祭日を中心として栄えた。里人の信仰が篤くこの地域を星原と呼ばず、ただ単に市と呼んでいる。
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63.南光院遙拝所
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外山の隆徳寺さんは、昔、浦渡寺といっていました。浦堂寺とも書きます。このお寺の本堂の脇に南光院の遙拝所があり、印の石が据えてあります。昔、別子頂からここまで南光院さんが通ってきて修行したともいわれています。
(外山 源代喜美子 談)
バクヂウチとタヌキ@
あまりにもバクチが強いので、他のバクチウチはその男に内緒で、隠れてバクチをしたという。その男は、東田のお宮の上の山にあがり、そこからバクチ場を探したという。夜分、火をコモなどで囲って人にわからぬようにバクチをするのだが、高い所からはその灯りが見えるのである。
ある夜のこと、そのバクチウチの名人は、灯りの見える国領河原の外泉の土手の方へ向って行ったという。ところが夜風にゴソゴソとするものが見えるので、よくよく注意して見ると、水溜りのふちでタヌキの群が化けているところだったという。アオサを頭にかぶれば島田(の髪形)の女になるという。
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64.高せんぽとお地蔵さん
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高柳公園から下へ流れている小川に高せんぼがいたそうです。いま高柳大師堂の六地蔵さんの傍にあるお地蔵さんは、昔、この高せんぽを封じるために、お堂の西の小川のふち(右岸)に建てられたものだそうです。
(外山 源代喜美子 談)
バクチウチとタヌキA
そのタヌキの一団が、井手の中を行列してソラ(上手)の方に歩き始めたので、これは珍しい、みんなにも見せてやろうと、大急ぎで家に帰り、糸を繰っていた女ごし連中を呼びだして、ソラの方で待たして、タヌキの嫁入りの一行が来るのを待つていた。
それからタヌキの嫁入りの一行が通りすぎると、後からすかさず石を投げ込んだところ、たちまちに辺りが一遍に真っ暗になって消えてしまったということだ。
矢野益治 談
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65.コバラのコバン狸
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おじいさんがこんな話をしてくれた。「昔、コバラ(泉川の外山町付近)という所にゴウラ(石ぐろ)があってのお、それは、それは、さびしげな恐ろしいところだった。そこにコバン狸というタヌキがおってのお、よく人を化かしたということじや。」
ある日、おばあさんが角野から城下へおつかいに行く途中、ちょうどコヾバラの下のカシヤブ付近を通りかかると、道ばたの「野つぼ」に人が入っているので、「あんた、そこでなにをしよるんぞな。」
と、たずねると、その人は体を洗うしぐさをしながら、
「風呂に入っとんのよ。」と、いいながらなおも体を洗うしぐさを続けていたということである。
わたしがまだ小さい頃、いとこの男の子と喜光地の柳川という雑貨屋さんヘアズキを買いに行った。その帰り道はやはりコバラを通らねばならなかった。日は暮れてしまって夜道は暗く、いとこに寄りそうようにして帰り道を急いでいた。
すると、何か足にポッン・ボッンと当たるものがある。恐ろしくて気味ガ悪くなってきた。きっとタヌキがいたずらをして、小さな石をわたしの足もとに投げていると思い込んでしまった。早く家に帰りたい、帰りたいと思い急げば急ぐほど足もとに、ポッン・ポッン・ポッンと当たってくるのである。
胸がドキン・ドキンと高鳴ってくる。冷や汗がでてくる。
いとこに話そうか、どうしようか。
うっかり、いとこに話すと先に走って帰られると困るので、こらえにこらえて、やっとのことで家にたどりついた。とても長い時間のように思われた。
家の戸ロに着いた時は、いちもくさんに飛びこんで入った。
家にあがって、よくよく見ると、アズキを入れて背中に追っていた風呂敷に小さな穴が開いており、そこからアズギが一つ一つ落ちて足に当たっていたことがわかったのである。
すっかりタヌキのわるさと思込み、怖い目をしたのがばからしく、遠い昔の話である。
(外山 源代喜美子 談)
高八・喜光寺・土居
明治十五年(1882)の記録に次のようなのがあります。
「旧九月廿六日 一、三拾銭 拾銭づつ 右、高八・喜光寺・土居 太鼓の花」。つまり、高八・喜光地・土居という三地区に太鼓台があったのがわかります。高八(たかばち)は、外山の南側辺りで、土居というのは隆徳寺より西、外山の西側の辺りをいったようです。
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66.松原池(かご池)増築にまつわる話
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昔、金子村は来る年も来る年も灌漑用水が不足していて、お百姓さんたちの大きな悩みになっていた。そのうえ天明三年(1783)には大飢饉があって人々のくらしは、目にあまる困りようであった。
その時、村の庄屋であった真鍋求右衛門さんは、村の水不足のことやお甘姓のくらしのことをとても心配して、「なんとかしなくてはならない。」と、考えていたがついに意を決して村の有志四人に呼びかけ、相談に相談をかさねたすえ、茜条藩主に「願い」を出し、元禄十二年(1699)に金子村が築池した松原池を増築して灌漑用水をおぎなうことにした。
求右衛門さんたち五人がお互いに資金を出し合って工事に着工したのであった。飢饉によって食べ物にも困っている人々を繰り出し、毎日粥を炊き出して工事を進めついに完成した。しかしこの池は水持ちが悪く、貯水に困るありさまであったので、人々はこの池を評して、
金子五軒屋にゃ池築く築くと
水も瀋らぬ籠池を
という民謡さえ歌われたのであった。
また、松原池の増築は当時としては相当の大工事でもあり、西条藩においてもこの工事に深い関心をいだき、普請奉行より森という技節を派遣して指揮をさせ、工事に協力したのであった。
この時、森技師は泉川の森という所に宿所を設けていたのであったが、ちょうどその時工事の手伝いに来ていた長田のお豊さんと恋仲となり、お豊さんは夕刻ともなれば毎晩のように森技師の宿所を訪れたので、人々はこの二人の仲をいとしく思って、
長田お豊は日暮れのカラス
森をめがけて飛んで行く
と、歌いはやしたのであった。そうしてこの池の水は旧金子地域の濯漑用水として利用されていたのであった。
多くの物語を伝える松原池の堤にはサクラが植えられ、春はサクラの名所となり、池面には小船が浮かべられて夏の夕涼みの場所として町の人々を楽しませていた。
しかし、時代は移り変わり、昭和四六年に市がこの池を買収し、翌年から埋立にかかり同五○年末に完了した。埋立てたこの土地には、雇用促進住宅・公務員住宅・NTT松原住宅・松原市営住宅等の鉄筋ァバ一ト群や各種商店が軒をつらね、舗装された広い道路が縦横に走っていてすっかり様子が変わってしまい、昔のおもかげをとどめるすべもなくなってしまっている。
(泉川町 泉川町史/新居浜郷土史談会 注釈西条誌/泉川公民舘 ふるさと泉用補充編)
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67.お物語り阿弥陀如来様の由来
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昔、泉川に治平というお百姓さんが住んでおった。とても、信心深く毎年、京都の西本頼寺へお参りに行くことを、欠かしたことはなかった。
今年も治平さんは、家のものや村の人々に送られて、京都のお寺へお参りに旅立ちました。治平さんは、遼い道を何日も旅を続けながら、ぶじに京都に着き、ねんごろに、ご先祖のご供養をすませた。治平さんは、まんぞくげに、
「おかげさまで、今年もぶじにお参りさせていただいた。ありがたいことじや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。」
と、唱えながら掃途についた。帰り道は、阿波の国に渡り、伊予のふるさとへと、足を早めていた。ふと見ると、森の木陰に、お庵らしいものが目にとまり、小川がさらさらと、流れていた。治平さんは、
「どうれ、ここらで、ひとやすみするとしようかい。」
と、つぶやきながら小川で手拭をすすいで汗をふき、お庵におまつりしてある仏様に手を合わせて、
「ひとやすみしたいので、軒縁をお貸しつかあさい。」
と、お願いをして腰をおろした。森の木陰をぬってくるそよ風が、治平さんの頬をここちよくなでながら流れていった。
よほど疲れていたのか治平さんはつい、うとうととうたたねをしてしまった。つかのまのうたたねであったが、夢の中で、
「これっ、治平・治平。」と、誰かが呼ぶ声がした。治平さんは夢うつつの中で仰ぎ見ると、枕もとに阿弥陀如来様がお出ましになっていて、治平さんに何か語りかけておられるようである。
「わたしを伊予の国へつれて行ってくれ。」
と、再三治平さんに、お告げのことばを投げかげられるのであった。治平さんは鷲いて目をさまし、「不思議なこともあるもんだ。」と思い、庵のあたりを見廻したが何のかわりもない。ふと庵の床下をのぞくと、阿弥陀如来様が見つかった。治平さんは、
「ああ、ああ、もったいないこっちや。この阿弥陀様が私にお告げくださったのか、ありがたや、ありがたや。さあいっしょに伊予の国へ帰りましょうぞ。」
と、たいせつにお守りしながら、旅を続けるのであった。
不思議なことに阿弥陀様と、ごいっしょ以後の旅は、通り過ぎる村々では治平さんを見かけると、たいへんなおもてなしをしていただき、はたごたども、
「どうぞ、うちんくへとまって行ってつかあさい。」
と、はたごのほうから申し出るほどで、治平さんは驚くやら不思議に思うやらで、
「これは、きっと阿弥陀如来様のおみちびきにちがいない。ありがたいこっちや。もったいない、もったいない。」と、手を合わせおがみながら、泉川の村に帰ってきた。
さっそく治平さんは、家の者や村の人々に、いちぶしじゆうをお話して聞かせた。
このお話は遠い昔の話であるが、その後長い年月の間、治平さんの子孫の方々に、ありがたい「お物語りの阿弥陀如来様」として、語り継がれ、信仰されてきた。このたび、この「如来様」を、治平さんの子孫の方から「寿仏殿」にご奉納されることになった。町の仏教団の方々もいろいろと心配をして、「如来様」を、ここへお迎えしてよいものだろうか、と思案のすえ、大阪から来ていた「祈祷僧」に拝んでもらうことにした。
祈祷僧は一心不乱にお経を唱え、じゅずをつまぐりながら、からだ中の力をふりしぼって拝むうちに、阿弥陀様のお告げを伝えた。阿弥陀様は、寿仏殿の方角に指をさされるので、「寿仏殿」ですか、とお伺いを立てると、膝を何べんも打ちたたいて、
「そこに、つれて行け。そこに、つれて行け。」
と、お告げがあった。
仏教団の方々も、安心をして「阿弥陀如来様」を寿仏殿にお迎えして、仏教団の御宝物としてお祀りすることになった。この「お物語り阿弥陀如来様」は今も寿仏殿に、金色まばゆい仏壇に、お祀りされており、篤く信仰されている。
(泉川御膳米講代表 古川安太 高津菊男 談)
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68.正光寺と久保坊の事
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新居浜駅の北東にある正光寺山古墳の山頂に、正光寺があったといわれているが、隆徳寺の古い文書などによると、
「下泉地区にあった寺が、いつの頃か正光寺山に移されて正光寺と呼んだ。」とか。
また、ほかのいい伝えでは、
「正光寺山にあった寺が壊れたので、下泉へ移して久保坊と呼んだ。」
など、いろいろいい伝えられているようであるが、西条誌(天保十三年(1842)に西条藩主松平頼学が同藩の儒学者日野暖太郎和煦に命じてつくらせた郷土誌)に久保坊のことが記されている。それによると久保坊は、
「清涼山・普門院・古義真言宗・御領(幕府領、天領ともいう)新須賀村円福寺末(末寺のこと)・・・中略・・・古き事伝わらず。この坊を、世上にて正光寺と呼ぶものあれども官(西条藩)ヘ達するの称号にあらず。正光寺は、天正年間、芸州の兵に焼かれ廃絶す。久保坊と称うるもの、その坊を、正光寺の焼跡に移す。よって正光寺の旧跡とはいうべし。正光寺とは称うべからず。檀中(檀家)几そ百三○余家あり。」
と、記されている。これによると天保十三年(1842)には久保坊と呼んでおり、正光寺山古墳の上に建っていたことは明らかである。
この久保坊も、明治四三年(1910)、外山の浦渡寺と合併して新しく隆徳寺となったということである。
(泉川公民館 ふるさと泉川補充編より)
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69.お化け井戸のこと
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昔、お正月にお殿様が泉川下泉の西原大庄屋さんの家にお泊りになられた時のことである。
その時、お殿様のお世話役を仰せつかっていた美しい女のお手伝いさんがおった。ちょうど、お殿様のお食事のお世話をしている時、急に屁意(おなら)をもよおしてきた。せっぱ つまったお手伝いさんは、持っていたお盆と湯呑茶碗の底を強くこすりつげて、擬音を出してその場をつくろおうとしたのであったが、お殿様は、「ごまかされませんよ。」と、そのお手伝いさんにいわれた。
お手伝さんは、恥ずかしくて顔をまっ赤にして、恐縮してしまい涙を流しながら思い詰めたように退座してしまった。
その後ただちに裏の井戸に身投げしたのである。それ以来毎年お正月がくると、この深い井戸の底から女のすすり泣く声が間こえるようになった。
誰いうとなく人々は「お化け井戸」というようになったが、後にねんごろにおとむらいをしてこの井戸にはふたをして使用を止め、その西側に新しく掘ったのが、今も残っている井戸である。
下泉の、お年寄りにいい伝えられているお話である。
(泉川公民館発行泉川だよりによる)
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70.山犬さん
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昔、大永山にはオオカミがたくさん凄んでいた。山の人たちは山犬さんといって、これらに関する伝説が多い。
この山犬さんの獲った、ツカやイノシシなどがよく山に残されていた。これらの獲物を黙って持って帰り食べてしまうと、のちのち必ず山の炭焼小屋や在所の物置などがさんざん荒されるようになる。
ただ、山大さんの獲った獲物を持って帰るときには、「山犬さんもらってかえります。」といって持ち帰り、一番上等の部分を焼いて串に刺し、「山犬さんあなたの肉をもらいました。これだけはお返しします。こらえてください。」といって、家の門ロにつきさしておくと、山犬さんはそれを食い、のちのち仕返しをするようなことがなかった。
(本郷 伊藤静馬 談 中萩 松本俊清 記)
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71.魔物の通る道
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昔から、夜の丑満刻になると、高山に棲む魔物たちが、山の尾根伝いに海に下り、夜明け前に山に帰るという。
このようなことから、山で野宿する時は必ず尾根筋を避け、少し尾根をはずして野宿しなければ危難に遭うといわれている。
これは大永山に伝わる話である。
(本郷 伊藤静馬 談 中萩 松本俊清 記)
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72.犬神さん
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明治の初め頃のこと、須領の番所跡という所に一組の夫婦が住んでいた。
ある日、常々村人たちからたいへん恐れられていた、山犬さんがこの家を狙って山から下ってきた。
夫婦は、外にも出られずただ一刻も早く立ち去ってくれるのを願って、息をひそめていた。しかし一向に家の前から離れようとしない。長い長い時間がたって、そのうちどうしても外に出なければならない用ができた。この家の主人が、様子をうかがいながら家を飛び出した。その瞬間「ガブッ」と山犬が脚に噛みつき離れない。主人は恐怖のため大声を出して助けを求めた。
幸い近くの畑で仕事をしていた人がすぐ駆けつけて来て、手にしていた鍬で山大を一撃してくれたおかげで山犬は山へ逃げていった。
この騒ぎに近所の人らも集まってきて「あの山犬さんは執念深い奴だから、必ず仇討に来るぞ。」ということで見張っていると、あんのじょうはるかな尾根筋を大きな尾を振りながら下ってくるのが見えた。
人々は戸を閉め、じっと恐ろしさに耐えるばかりであった。この時、柄鎌を使わしたら村一番の使い手で、名人といわれている男が、
「よし、わしが一発でしとめてやる。」
といって、入口に行き身構え、引戸を少し開けた。開くと同時に疾風のように山大が室内に飛び込んできた。
最初の一撃は柄鎌の先端が引っかかり失敗してしまったのである。飛び込んで来た山犬は寝かしていた赤子をくわえてしまった。
さすがの名人も子供をくわえた山大に刃物を使えず、鎌を捨てて素手で山犬に立ち向かった。山犬もくわえていた子供を放し猛然と名人に飛びかかってきた。名人はサヅと体をかわしながら山犬の首にしがみつくと同時に、かたわらのイロリに突きさしていた火ばしをつかむとひと刺しに殺してしまった。
村人たちは、執念深い山犬さんにたたられることを恐れて、大神さんとしてねんごろにとむらったという。
今も須領の大ケヤキの元に大神さんが祀られている。
(本郷 伊藤静馬 談 中萩松本俊清 記)
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73.大永山六地蔵と山女郎
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篠場町深谷から大永山へ登る古い道がある。その急峻な山道を登り詰めた尾根が、六地蔵である。ここには名の通り、右室の中に六地蔵が祀られ、昔から山の人たちやここを通行する人々の信仰の場であった。昔、ここには地蔵堂があり、庵主さんも住んでいた。
ある夜、いつものように仏前にお経をあげていたが、ふと物の怪を感じたので戸を開けてみると、きれいな娘が立っていてゲラゲラと笑いだした。
「ハハー、これが人をたぶらかすという山女郎だな」
と、庵主さんは気づき、
「早々に立去れ!」
といったが、その娘はいぜんとしてゲラゲラと笑うばかりであった。
仕方なく庵主さんは、また仏前に戻って読経を続けていたが、更に立ち去る気配がない。
そこで庵主さんは読経してたお経をつかみ、立ち上り、戸を開け、
「立ちさらんか!」といって、手にしたお経で山女郎を打ちすえようとした。
その瞬間、山女郎にバッと体をかわされ、力あまった庵主さんは庭先に転落し大怪我をして、それがもとで死んでしまった。
こんなことがあって、その後地蔵堂を竹屋敷の方へ移したという。
(本郷(元須領住) 伊藤静馬 談 中萩 松本俊清 記)
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74.高尾大権現(上原・高尾)
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高尾城は、高尾山の山頂にあって、山は険しくかなり大がかりな空壕を前後に備えた堅固なお城であった。しかも後方から、兵糧や水が補給されることもあって難攻不落を誇った城であった。
昔、この高尾城にたいへん強く、りっぱな城主がいて、数多くの戦いにも敗れることがなかった。
しかし、ある時の戦いに、この城は正面からいかに大軍をもって攻めても、みだりに将兵を失うだけだと気がついた敵将が、後背の補給路を断つことを思いつき、はるか芦屋川を迂回して後の山に出ようとしたが、土地不案内と深山のこととて、その補給路を探し出すことができなかった。
ところが、ある日山に入った敵将が年老いた老婆に出逢い「高尾山の応援にきたが、土地不案内で困っている、高尾城に行く道を教えてほしい。」と頼んだ。あざむかれたとは知らず老婆は「今度の戦いでは高尾のご城主様もたいへん困っていなさる、早く行って助けてあげてください。ご城主様も大喜びなさるだろう。」と、くわしく城への道を教えてしまった。
高尾城の後背部にも大きな空壕の備えがあるとはいえ、背腹から攻撃をうけては、さすがの堅城も持ちこたえることができず、ついに落城してしまった。
高尾城をでた城主は、高尾の地区にたどり着かれたが、寄手の大軍のため壮烈な討死を遂げた。その霊をなぐさめるため、高尾大権現としてお祀りすることとなった。
このようなことから高尾に入山の際は、必ずお高尾さんにお詣りして山の仕事に取りかかったものである。
また毎年九月九日には、高尾の人々が総出で、前夜より高尾に登りお通夜で慰霊祭を行っていたが、大平洋戦争以後は地区内持ち回りのお祭りになり、いつとはなく立ち消えになってしまった(故 守谷義夫氏 談)。
現在の高尾城址には、石積みの上に一体の石地蔵が安置されているが、ほとんど参詣する人もなく、もちろん入山するのは四国電力の鉄塔管理のため入山する程度で、かえりみる人もいない。
高尾には、年一回のお祭りに高尾大権現の宝前に掲げられているという、古びてポロボロの軸が一本ある。る。
この軸は中央に乗馬姿の武士とその従者が二人に仏像が配置されている。
(中萩公民館)
平目木
上原にある。土地がやせているので作物が十分にできなかった。一反(三○○坪、約九九一・七平方メートル)の畑で麦が二斗か三斗(一斗は十升、一八・○三九リットル)、良い所で四斗か五斗しか取穫できなかった。しかし、土地がやせていれば、麦の実がかたく、その粉に粘りがあるので上等の麦麺(そうめん)ができるという。江戸の殿様へ献上する麺(めん)はこの地の麦をもって造ったということだ。
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75.銭がめと古銭
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昭和五二年四月、新居浜市が考古資料として文化財に指定した。
大正十五年(1926)三月十八日、新居浜市中村二丁目、松本仁平氏の畑から珍しい銭がめが発見された。一家八人が総出でゴボ地こしらえに畑を掘っていた。当時二○歳の禎蔵氏(今なお健在)のくわの先にかちっと音がした。これが実に珍しい銭がめの口であった。当然あったはずの「ふた」が、その時には無かったので、雨水も浸入したであろうし土も詰まっていたが、その中には四角い穴のある古銭が青さびで横に一列にびっしり詰まっていた。かめが大きいのでみんなが協力して掘出し、そこから三○○メートル近い自宅まで運搬するのがたいへんな苦労であった。
かめの口径四二センチ、胴は四五センチと六三センチのだえん形、高さ五八センチ、灰色、林質は硬質。
このニュースは、全国の新聞に報道された。銭がめと古銭は松本家の宝として、松本節太郎氏宅にたいせつに保管されている。
古銭の重量三○八キログラム(発掘当時三一一キログラム)枚数約八三、三○○枚、さびてはいるが銭紋が読みとれるものがほとんどであるともいわれている。
当時、村中大きな話題になって見物客も多かった。荷車に積み、村人、子供たちが綱引きして、角野警察署へ運搬した。その様子は、桃太郎が鬼が島から宝物を持ち帰ったような格好であった。その後期限が来ても所有者なし、で、そっくり返してもらったのであった。
新居浜文化財保護委員長、合田正良氏が調査して発表された資料によると、
これらの古銭は、中国の宋銭で、古い唐時代のものもあり。その中から「和同開珎」が一枚見付かった(あまりにも枚数が多いので全部は調べてない。)。最も新しいものとしては、中国南宋の成淳元年(1265、鎌倉時代)のものであった。それ以後のものが見当たらなかったので、おそらくその頃に埋められたと推定される。
当時一文銭にて、米三升と交換することができたので、これだけの銭で、米六、二六五俵を買うことができた計算になる。現代の米一俵の値段を一八、六七○円と仮定すると、換算して約十二億円の価値となる。
これほど巨額の銭をなぜにこの地に埋蔵したか。当時中村本郷に、役所がおかれてあったことや、現中萩中学校のあたりに古墳が多く集中していることから、この地に住居していた豪族が埋めたのかも知れない。白山神社は東面してい、るが、真東でなく約五度南にかたよっている。銭がめの存在した位置が神社から三○○メートルで、その方向になっている。
元明天皇の慶雲五年(708)武蔵の国から銅が献上ざれた。朝廷においては、銅の乏しい時代のこととて、たいへん慶事として、年号を和銅と改め、唐の貨幣制度にならい「開元通宝」を範として「和同開珎」という銭をつくった。しかしその量は少なかった。
貨幣が流通しはじめてのち、平安、鎌倉時代に至ってさかんに中国の宋銭を輸入してこれが我が国の通用貨幣となった。
松本家で発掘した古銭も、ほとんどが宋銭と唐銭で、古いものとしては、唐武四年(621)こも見られる。
立川増吉氏が最近「伊予の発掘古銭」を自費出版した。氏は終戦後外地から引揚げ、愛媛県庁に勤務して、県教育委員事務局嘱託社会教育係に勤務した(現在九○歳にて健在)。
氏が一度松本家を訪れ、山ほどある前記古銭の中から一握りを調べた。個数一四五個、二五種類の中に、開元通宝(621)が三一個存在した、なおそれらの銭文を記録している。
今後、誰かの手によって、発掘古銭全部を詳細に調査研究されることでしょう。
(中村 武田進 記)
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76.虫送り
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夏の行事に「虫送り」があり、当日には真光寺さんがこられ「ハンニャ入れ」もした。
その晩には、さおの先にたいまつの火をともし、村の西側から、東の尻無川の所まで、大人も子供も出て行列をした。
「稲の虫を送った、/\」
と、いいもって、おおぜいで行列をした。
「きたじょう」・「なかまえ」など、三本の道すじでこの虫送りをした。
こうした行事も今はなくなってしまいさびしい気がする。
(本郷 高橋テル子 談)
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77.棟上げにウシを投げた
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この地方では、古くから新築の棟上げに餅を投げる風習がある。
西松木(今の中村松木)に田村さんというお金持があり、この家では新築棟上げに小ウシを投げたという話が語りつがれている。
もちろん、小ウシを餅がわりに投げたわけでなく、投げ餅の中に木札などの標識を入れ、その餅を拾った人に景品として小ウシを出したどいうもので、当時その豪勢さに近隣の人々が驚いたという。
この餅を拾って小ウシを獲得したのは、阿波のお遍路さんで、大喜びをしながらウシをひいて帰ったという。この話は明治中頃のことであるとか。
(中萩 松本俊清 記)
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78.田村踏切り
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横水町の予讃線と住友鉄道が交差する少し北に「田村踏切り」というのがあった。
住友鉄道が建設された頃、西松木に田村久五郎という人物が住んでいた。彼はなかなかの事業家であり、すぐれた人物であった。住友鉄道の建設に当たり、中村本田の「ど真中」をつぶされるということで、猛烈な反対運動が起こり収拾がつかないようになった。彼は地主に、この鉄道建設の重要性と便益を説いて回り、ついに円満な話し合いをつけたという。
そのような功績からか、鉄道完成後、彼が例の踏切りに立って、ちょっと手を上げて「田村じャー」というだけで、上り下りのどの列車も一時停草して彼を乗せていたといわれている。しかし、下り列車の場合は何人かの制動手がいて、制動ブレーキをかけながら下ってくるのでよいが、上り列車になるとたいへんで、国鉄(JR)を越えたとたんに土橋まで続く急坂を助走してきた勢いでいっきに駆け登って行くのが普通であるが、そのたいせつな助走の場所に踏切りがあり、いったん停車すると、あとはあの坂道を、
「この坂せこ坂、この坂せこ坂」
と、あえぎあえぎ登っていったもので、機関車がかわいそうで、ちょっとあとを押してやりたいような気になることもあったとか。のんびりした話である。
(中萩 松本俊清 記)
唐津塚
上原にある。文化年間に助右衛門という人がこの石ぐろを掘りおこしたところ、美しい皿碗や盃などが出たが大石に突き当り、ビクともしなかウたという。その時この助右衛門は「気狂い、心乱れ、魚屠子刀を把りて、自らその身を傷りしなどし、老て後狂病わずかに治りたりという」と西条誌に書いてあります。
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79.幽霊子の話
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このお話は慈眼寺の、先々代の大隆大丈和尚さんより聞いたものです。
明治の初めの頃と思います。中萩村のある所に、おじいさんが子供相手の小さなお菓子屋さんをしておりました。ある夜、店を閉めてその日の売上を勘定しておりますと、お金の中にコウシバの葉が一枚入っておりました。最初は気に止めませんでしたが、毎日のように一枚入っているのです。これは変だと思ったおじいさんは、今日来たお客さんをつぎつぎと思い浮かべてみました。そしてもしかするとあの人かもわからないと思いました。その人はまだ若い女の人ですが、やつれはてた病人のようで、とても悲しげな顔をして、毎日飴を買って帰るのでした。
翌日おじいさんは、その女の人のあとをつけて行きますと、お墓のたくさんある所に来ました。そして新しいお墓の陰に隠れたかと思うと急に消えていなくなりました。するとお墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえて来るのです。驚いたおじいさんはさっそく帰って、近所の人たちをつれて来てお墓を掘りました。すると中から元気な女の赤ん坊が出て来たのでした。
またこのことをうらづけするようなことを、私が子供の時、近所の秋山肇さんのお祖父さんが次のように話しておりました。
「わしはまだ子供の時、明治の初めの頃であったが、中萩村から荷車をひいて、毎日野菜売りに新居浜へ行くおじいさんがいた、その荷車の上に三つくらいの女の子がいつも乗っておった。その子をみんな指ざして幽霊子、幽霊子といっていた。なんでもお墓の中から生まれた子供だとみんながいっておった」との話でした。
これに似た話は日本では、あちこちにあります。このようなことは実際にあるのかと、婦人科の看護婦さんに間いてみました。すると看護掃さんは、母親が死ぬと臍の緒でつながっている子供も、自然に死ぬのです。でもこの世では、今の医学では解明できないこともあります、との話でした。
(西の土居町 藤田敏雄 投稿)
轟橋
いまは亡くなったが、『小松邑志』によれぱ、角野村生子山城趾の麓の「ドンドロ」という所にあった塚穴の石で橋を掛けたという。代八車三台にのせて運んだので、車の字が三つで、それで轟橋と名づけたということだ。
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80.天皇原の天皇さん
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本郷町の県立新居浜病院の周辺一帯、約二○余町歩(約六六、○○○平方メートル)は「天皇原」という古い地名を持ち、県立病院玄関右手の石墨片岩製記念碑の所に「天皇官大神社」の社殿が建っていた。
このお社は、すでに滝神社に摂社として合祀され、その跡地に「天皇官大神社」と刻まれた石柱があり、合祀されたあとも旧氏子の人々がよく参拝していたものである。
しかし石柱は病院が改築された際に構内の別の場所に移転され、旧跡としてはサクラの木一本だけになっている。
合祀以前は、本郷・西の端・烏渕など五○余戸の氏神であった。
いい伝えによると、江戸時代の中村組大庄屋真鍋氏の先祖が勧請したとも聞くが定かでない。
(中萩 松本俊清 記)
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81.力石になった墓石
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昔は、若い衆が集まると、力自慢・腕自慢を競うことが多かったとか。
烏渕の東部、東川に近い一角に「烏渕開拓碑」という記念碑がある。そのかたわらに、一個が十六貫、米俵一俵分(六○キログラム)、もう一個が二○貫(七五キログラム)という、花崗岩製の円筒状しりすぼみ型の僧侶のものらしい墓石がころがっている。
馬渕の古老の話によると、あの石がかつげるようになったら米俵がかつげるようになるということで、若い衆の精進の石であったという。
おかげで、大きい石は当然刻まれていたはずの墓碑銘もすりへり、消えてしまっている。
ちなみに、この墓石の元の住所を知っている人はいない。
(馬渕 土岐文吉 談 中萩 松本俊清 記)
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82.カネ姫を助けたイノシシの御恩返しの話
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春高楼の花の宴、めぐる杯影さして・…・とあの荒城の月の歌にもあるように、金子城の平和な時代でした。金子備後守を始め家臣一同が山上でお花見をしておりました。そして宴もたけなわになった頃、数人の若い者が山の中からイノシシの子を生け捕りにして、備後守の所へ持って来て「殿、イノシシの子を捕えて来ました。子供ですから肉もやわらこうございます。さっそく料理を致します」といいますと、居並ぶ家巨たちは、それはよいごちそうだと喜びました。ところが備後守は喜ぶと思いの外、顔を曇らせて「そのようなかわいそうなことはしないでくれ、どうかそのイノシシの子を助けてやってくれ、しかも余は亥年の生れである。」というのでした。
そしてイノシシの子をもとの所へ逃してやりに行くのです。ちょうどその時四、五歳であった備後守の長女カネ姫も家来につれられていっしょについて行きました。
命を助けてくれたイノシシの子は木立の中に走って行きました。すると数匹の親、兄弟のイノシシが出迦えに来ており、いっしょになり、十歩行ってはあとをふり向き、二○歩行ってはふり返りながら木立の中に帰って行きました。
時は流れて天正十三年(1585)七月十四日、秀吉の四国攻略に対して、土佐の長曽我部と同盟の義理のため、人は一代名は末代と、十倍に余る秀吉軍を相手に戦った金子城もついに落城、当時一六歳になった美しいカネ姫は、家来の守谷一族に守られて、金子山伝いに土佐へ落ちようとします。しかし敵が追いかけて来て、守谷一族も次から次へと斃れます。とうとうカネ姫一人になります、「あれは美しいカネ姫だ、早く捕まえろ」といいながら敵が追いかけて来ます。あゝもうだめかと思ったその時、木立の中から数匹のイノシシが牙をむいて、敵におそいかゝりました。思いもよらぬ出来事で、敵がとまどうあいだに姫は危機を脱して、ぶじ土佐へ逃げることができました。しかしイノシシたちはついに殺されてしまいました。
土佐に逃れたカネ姫は、長曽我部氏に優遇され、また山之内家の時代になって、奥女中の取締り役となり、八○歳の高齢を保ちました。
またカネ姫が逃げる時、身に着けていた衣装や被っている笠が、木立に引っ掛かって取れなくなりました。それから、後世の人は現在のゴルフ場付近一帯の山を衣笠山と呼ぶようになったとのことです。また、カネ姫を守った守谷一族の御子孫の方たちは現在でも中萩町におり、栄えております。
(西の土居町 藤田敏雄 投稿)
北ノ坊・南ノ坊
現在は東西の位置にあるが、昔は南ノ坊がもっと南の地にあったといわれている。寺号は、阿弥陀寺(北ノ坊)・荻生寺(南ノ坊)という。「小松邑志」によれば、七月十四日(お盆)に小河城(且ノ上の山中に在った。城が尾とも言う)の城主の亡魂慰霊の為に、次良九辺りの里人が北ノ坊に集って「踊躍」(おどり)をしたという。
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83.旦ノ巣ダヌキとビアノ滝ダヌキ
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萩生北之坊の西坂を下りますと、旦ノ巣という所があります。
また東坂より、南の坊に行く間にビアノ滝という所があります。
旦ノ巣に住んでいるタヌキは雄、ビアノ滝にいるタヌキは雌であったといわれています。旦の上に、お菊さんというおばあさんが、夜もふけて買物をして帰っていましたら、旦ノ巣を通りかかった時、このタヌキに化かされ、今来た道をタヌキといっしょに、ピアノ滝の所に行き、ウロウロしていました。このタヌキは若い娘になって手招きをして化かしたりしたそうですが、寺の鐘がなると急にいなくなったりしました。
(萩生 豊田博眼 記)
出世川
中萩の奥、小味地から流れる川は、小味地用とよばれています。黒岩橋をへてからは、東川となり、金子川と名をかえ、新居浜の町を通って瀬戸の海に流れこみます。昔の人は、この用を出世川とよびしたしんでいます。
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84.六郎池の眼神様
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旦ノ上の白石という所に、六郎池があります。その中ほどには小さな島がありまして木が茂っています。その島には、昔、旦ノ上の合戦で敵の矢に眼を射たれて命を落としたウマを葬っているということです。馬上の兵はそのウマの霊をなぐさめ続けたということです。
その後、そこに池をつくりましたが、ウマの墓を島として残して祀っていました。
その島には、いつか白いヘビが凄み、そのヘビが片目であるといわれ、池に棲む、ウナギもまた片自がつぶれているということです。
(萩生 豊田博眼 記)
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85.城ケ尾古主塔
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旦ノ上、薬師堂のかたわらに「城ヶ尾青主塔 願主当村入山分 天明元丑年(1781)」と刻まれた台座に、お地蔵さんを安置した、石造物があります。
この城ヶ尾というのは、この薬師堂の南にある小河山にあった小河城のことである。
小河山は、西側に渦井川、東側が小河谷にはさまれ、剣のようととがった尾根につゞく山で、その後方に黒森山が続いています。
この尾根に小河城があり、戦国乱世にいくどとなく、敵味方入り乱れての戦いが繰り返されていた所であります。現在でも小河城の麓にある、兵糧蔵の跡という所からは、炭化した穀物が採取されるといわれています。
小河山は、戦国時代の戦死者の亡霊がただよう山であるということで、人々から恐れられ、あがめられた山であります。昔は日が暮れて小河山から帰らない人があると大騒ぎになり、たいてい、大けがをしているか、死んでいることが多く、事故の多い山でした。しかし、このお地蔵様が建てられてのちは、そういうこともなくなり、薪炭や肥草の採取できる入会山としてたいせつな山となりました。
(旦ノ上 故 高塚三郎氏 談)
お種地
大生院と中萩は、小松領でありました。廻りは天領といわれ六ヶ村ありました。お種地は、日照りに対して、種をきらさないためでした。正法寺あたりの山部は湿気が多く、干ばつの時にも作物がよくできました。昔の人の用心深さがよくわかります。
出吹谷・大野山
山口から一里余りに、銚子の滝から下に山吹の群生した所があります。聞花のときは黄金の谷のようで、目をみはるばかりで、上手に銚子の滝といって、六、七間の滝があります。絶景であり、最近訪れギ人が多くなっています。
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86.大生院の山
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昔はよく山に入って仕事をしたものだ。まず黒森山。その右手(西)の方にあるのが、カタブキ山。三角形が傾いているようなのでカタブキ山という。それから黒森山のこちら側にあるのが、シャクナゲ尾。シャクナゲの木がたくさんあるからだ。
そこから右手の方に愛媛拡山跡。わしらが三七歳頃まで(昭和十年代初め)は鉱石を出していた。その下に、選鉱場。ここの鉱石には硫化鉱がまざっており、川には魚が育ちにくい。
少し下がって、ツャエンの滝。さらにツバクロ滝。ここは暖かいのでツバメが越冬したという。日当たりのよいところだ。
それから東から小さな川が合流した所が、一の瀬。一の瀬を小さな川の方(東南)ヘさかのぼると、二の瀬になり、そこから南の方へ登って行くと大きなヒノキの株があって、銅の露頭があり、石がくさってフイているという。
その露頭の所まではワシは行ったことがないが、たいへんによい露頭で、別子銅山からその下あたりにまで掘ってきているといううわさだ。
二の瀬から左(東)側にゆくと、ダンジリ岩がある。夫婦岩ともいうが、上はたいらで大きな石だ。ワシも一度石の上に登ったことがある。そのあたりでは堅炭を焼いていた。
カシ・ホウサ・クヌギの木を焼いて炭をつくるのである。ホウサというのはシイタケの栽培によく使う木のことだ。
さて、元の二の瀬・一の瀬に戻り、そこから銚子の滝へと流れているのを、ナベラ川という。
三方を石に囲まれ、砂地もないのでナベラ(なめらか)川というのだろう。
銚子の滝はお酒をつぐトックリの口のような形だから、それで銚子の滝という。今は少し口の所がくずれているが、三○〜四○尺(一尺は三○センチメートル)もあるだろうか。
銚子の滝から東に入った方には、シンセイ鉱山というのがあった。
松だけ鉱山ともいったが、ワシらは若い時にはネコ車で鉱右を下まで運んだ。一俵十六貫(六○キログラム)の鉱石を一度に二俵で、一日二回。それで日に二八銭もらっていた。ワシらが十六歳(大正中頃)の時だ。
山から下におろした鉱石は、大生院からは荷馬車で、西条の新浜まで運ぶ人が別にいて一俵五銭、一車に五俵ほど積んでいた。
(大生院栗林 高橋為 談)
中萩・大生院の山問部にあたるところに、「ナル」「ナロ」「ナラス」という平坦地にした所がある。成る・平と書き、当の鳴(ナル)=東平(トオナル)、大多羅(オーダラ)、大平(オオダイラ)、上の成(カミノナル)がある。大生院にはこの地名が大変多い。
中ノ城、柿ノ成、ヒナコ成、竹の成、堂の成、谷の成、戸屋ノ鼻山神成、中尾ヶ成、シメジノ成、などである。
秀吉の四国征伐の時、敗軍の武士が山に入り、開拓して畑をつくり住んだともいわれている。渦井州をはさんで、奥深く昔の人々の生活のあとがみられる。
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87.大生院の水げんか
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大生院のまん中を流れる渦井川は、徳川幕府の藩政の頃から「水げんか」の話が伝えられています。雨が多くて水のたくさんある年は静かで、何ごともないのですが、干ばつが続くと「せき」を破壌して流血をみるほどのけんかになります。
昔、庄屋さんが娘の嫁入りにあたって、渦井の水をつけてやったといわれています。
渦井川の西を流れる「鮭川」の水を縁者となった飯岡に流すようになりました。要するに持参金のようなもので、しかも大生院に四分、飯岡に六分の水量を流しました。
日照りが続くと、鮭川の「古堰」におおぜいの人が集り、鍬やかまを持って争いました。そのあと、双方より水頭が出て水の当分について決め、日夜番人をつけて水を分けたといわれます。
現在では、岸影の方にも水源地ができ、地下水の利用にともなって水争いもしだいに解消されました。古老の話によれば、水げんかは年中行事で、けがをしたり、仲たがえをした人もたくさんいました。そう古い話でもないのに、今はサクラの名所として人々が集まり、花見や餅投げなど、世の移りかわりを感じるといわれていました。
(大生院 曽我部明光 談)
「大生院」はふるくは「往生院」と書き、江戸中期頃「大生院村」とかかれ、小松領としるされている。これは、石鉄山、往生院、正法寺の寺の名から、とられたものである。大生院は、西部、市ノ川、早川、大浜などをふくんでいたが、昭和三十一年九月西条市に分轄編入された。仁徳天皇の御代に、多くの秦氏がこの地に来住して大いに発展し、この地の豪族となった。
奈良朝未期から、乎安初期にかげてこの地に正法寺を創建、当時は七堂伽藍を有する名刹であった。秀吉の四国征伐の析炎上して現在の地に再建された。
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88.ツルの話
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昔は、といっても、明治の前までこのあたりにも、ツルがたびたび飛んできていました。
彦右ェ門という人の「手控」の中に「ちょうど十二月二六日(天保十一年(1840))」に山越えしてきたツルに、ワシがとびかゝり、ツルをつかみ組みやいをりし所、善作行きかかり侯てつれ帰り、庄屋所へつれ行き、納屋に置き、番を申し付け候所、七ッ時おち候。」
それで小松藩にとどけをしましたところ、ごほうびとしてお金をいただいたと、書かれています。ツルが長淵の谷間に降りて、休んでいるのを見かけた人がありましたが、おふれにより、たいせつに保護されていたようです。
傷ついたツルを助けて、青ざし(昔のお金)、をいただいたとも記録されています。
それにしても、マツの緑の上を自ツルが舞う姿を想像するだけでも、胸おどる感じですが、昔の人々と動物の間には、ほのぼのとした心の交流があったのでしょうか。
(大生院 故 渡辺政雄 談)
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89.カメの子をつく
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西条三万右は、おついしょうでもろて
小松一万右は、槍の先よ??
池普請の時、地面を固めるのに「亀の子」(といって丸い石に縄をくくりつけ、八人くらいで引っぱっては持ち上げて、ドスンと落とした。)をつきながら歌ったものだ。
ハー ヨイ/\ドン/\ヨイ/\
ソレヤレ モウーツソレヤレ ドン/\
また、家の「地ぎょう石」をつくときには「たちまち」(木でやぐらを組む)をして、「歌いや」(近隣の歌のじょうずな人)をやとって、お酒を飲んでもらい、美声ではやし歌などを歌ってもらいながら地ぎょう石の所を固めた。今はコンクリートで基礎工事をするのでこのようなことをしなくなった。
(大生院 栗林 高橋為 談)
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90.トンドと餅
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お正月十五日 オシメヲハヤス
トウドヤ サンキチヤ
アズキモチヤ ハヤスエタ
モチノカゲハ今日バカリ
現在のようにお米を十分に食べられなかった時代、お餅といえばごちそうであった。そのお餅も正月十五日頃までには食べ尽くしてしまうのである。
それでトンドの時には初めに書いたように歌ったのである。
「サンキチ」というのは「左義長」がなまったものらしい。
「スエタ」というのは餅にカピがついてくさることをいうのである。
(大生院 栗林 高橋為 談)
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91.伊賀はんのお祭り
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「伊賀はんになれば夏じゃ、お薬師さんになれば、夏が終りじや。」毎年村人は、そういってくらして来ました。
大生院上本郷(本村)に、五輪の法塔のある墓所があります。毎年七月、高橋家の人々が近在から集まり、法要をしています。その夜は、花火、夜店、餅投げなど、子供たちにとっては楽しい夏の始まりで、ゆかたを着せてもらったりしました。
伊賀はんの敷地に、樹齢、数百年を経た「ムクの木」が大生院を見下ろすように立っています。村人の喜びや悲しみを、静かに見てくれているようで、通りがかりの人も思わず手を合わせているようです。
「高橋家の中興の祖は、源十郎信義といわれる方です。高橋家は源氏の一族で、このあたりを所領していました。父源信光は、往生院村のぶよしの地に屋敷を構え、秦氏の女と結婚し、嫁方の姓を名のり、伊藤源十郎信義と改めました。信義から三世を経て、光孝・正次の代にふたたび高橋姓を名のり、天正十三年(1585)、秀吉の四国攻略の兵乱に出陣し、父と兄は戦死しました。
正次はひそかに往生院に帰り、遁世しましたが、秀吉の死後、家門の由緒が認められ、大生院庄屋を拝命し、武士をやめ、農家となり、善兵衛と改め、村をよくおさめ、村人からも尊敬ざれました。元和六年(1620)六月十九日歿、伊賀はんとして、今日に至るまでしたわれています。」(大生院史誌による)
領主を捨て、万も捨てた善兵衝が「伊賀はん」として村人の心の中に深く生き、今も子供らにもしたしまれていることは、まことにほゝえましいことと思われます。
(大生院 故 高橋寧夫 談)
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92.大生院につたわる昔話.
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昔はこのあたりの山にも、タヌキがいたと、おじいちゃんがいっていました。ある日、りょうしが、タヌキをつかまえて帰りました。それは、食べるためではありません。そのころ、タヌキの毛皮は、とても高く売れました。
その毛皮は取りごろがたいせつでしたので、りょうしは、タヌキを箱に入れ飼うことにしました。
「きょうは、皮を取っていいかな、いやいや、もっとあとで取ったほうが得かな。」
などとタヌキの目の前でいうのです。もうタヌキは、生きたここちがしません。
ある日のことです。りょうしは、「もうそろそろ毛皮を取っていいかな、よし、あした皮を取ってやろう。」といいました。さあ、たいへんです。タヌキは、箱の木をがりがりかじってみましたが、箱は開きません。タヌキは、困ってしまいました。やがて夜になりました。ちょうどその時、クヌキの友だちが来て、助けてくれました。
月日が立って行きました。りょうしの家の子供は、どうしたわげか、ずんずん気ちがいになるのです。りょうしは、うらない師に、見てもらいました。うらない師は、
「これは、タヌキのたたりですぞ。」
といいました。りょうしは、ある日、タヌキにあいました。そこで、タヌキにたずねました。タヌキはいいました。
「あなたは、りょうしだから、わたしを捕えたのは仕方がない。また、私もタヌキだから毛皮を取られても仕方ありません。でも私の目の前で、いつも私の毛皮を、あした取ろうか、あさって取ろうか、などいって、私がどんなに心細いが、どんなに身のちぢむ思いをしたか、おまえさんにわからしてやろうと思って、あなたの子供に祟ったんだ。」
といったそうです。りょうしは、自分の罪を深くわびました。
(大生院中学校 二年生 談)
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93.王塚の話
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大生院銀杏の木に「王塚」という、古墳があります。周りの田畑に囲まれて、高さ約二メートル、三坪弱の石ぐろのような形をしています。地域の人々は、王塚という名のように、皇族の方のお墓と思い誰も手をふれませんでした。明治の半ば頃、古墳を掘った人がいましたが、にわかに盲目となりそのまゝの状態になっています。
お年寄りの方の話によりますと、太刀・玉・埴輪のようなものが出たといわれています。
七○メ?トルほど離れて、王神社・妙見神社・正法寺と山続きになっています。王塚は、これらの神社・仏閣を建立された方の遺体を葬ったともいい伝えられています。
正法寺・笹ケ蜂の開祖、上仙上人は、皇子のご身分で修験道をおさめられ、この地方一帯に多くの寺社をおつくりになったとのことで、王塚はこの皇子のお墓所であるとされています。
王塚のすぐそばに、樹齢数百年の大イチョウの木があり、いくどかの落雷で原型をとどめていませんが、うつろな巨大な幹から、新しい枝が繁っています。銀杏の木という地名もこの木からとられたものでしょう。このあたり一帯は正法寺の寺領で、北端に王塚、南に蓬池があり、今も、建倉・ため池・蓮池など田の一枚一枚に名が伝えられています。
大正年間、農道をひらく時、多くの土器が発掘されましたが、泥塔は、愛媛県下にも珍しいものといわれています。
昔、秦氏の一族が正法寺再建にあたり、京都の地形に似た場所に、紙園社・八幡社・小野官社などを祀り菩提寺として、寺院を建立され、七堂伽藍をそなえていました。ざんねんながら四国征伐によって、焼滅し現在の位置に建てられました。その間、王塚と大イチョウは変わりなく世の推移を見守って来ました。
王塚がいい伝えのまゝのものであるか、どうかは、今後の発掘を待たねばなりません。
(大生院 大角勇 談)
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94.昔の信仰「一字一石の塔」
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私の家から、一○○メートル西方の徳右衛門川の堤防の所に、高さニメートルくらいのコンクリートの塔があります。
これは、一字一右の塔で、昔の日蓮宗(ホッケ)の方が信仰されたものです。ここは、大生院一一六二番地で昔のヤブ畑のような所です。昭和五○年土木工事によって堤防改修がされることになり、ブルで掘りくずして行きました。
ところが、出るわ、出るわ、工事の人は恐れをなして寄りつかないありさまです。
それは、青石(丸みのある五センチぐらいの大きさ)に甫無妙法蓮華経と書かれ、俵に二○俵(ニトン車一台分)で加茂用のマサゴ石ぱかりでした。この地は大角さんという方の土地で御先祖が信心深く、これを祀られたものと思われます。
これが、昔の人の信仰で、車もなく、トラックもなく、大八車もなく、人々は肉体を便って、加茂川からこれを運びました。信仰と奉仕の気持ちがうかがえます。
これと同じものが銀杏の木法華堂の前に二つあります。私は日蓮宗ではありませんが、たまたま発掘に立ち合い、昔の人の純粋な信仰心にふれ、感動しました。一字一石の塔に秘められた願いは、やはり、人々の幸せと、世の平和を願ったものと信じます。
(大生院 故 渡辺政雄 談)
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95.竜の谷の雨乞い
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大生院戸屋ノ鼻の奥に、竜の谷といわれる谷があります。この谷の近くには、半田山の古墳や、土器、布目瓦などが発見されています。
ある年、日照りが続き、水が涸れ果てたため、村の人力は万策つき、お寺に集まりました。和尚さんは村人の願いを聞かれて、谷川に登られ、七日の「行」をされました。
満願の日、午後になって、にわかに空が曇りました。和尚さんは、わらでつくったタツを大空に向かって投げ上げますと、そのまま勢よく飛び去ったといわれています。
それから、大雨が降り続き、村人は飢えから救われました。お和尚さんの「行」された谷を「タツの谷」といい伝えられ、谷の水も絶えなく流れています。
栄任和尚さんは、天明七年(1787)、仁和寺から正法寺にこられました。栄任和尚さんは、仁和寺で入道され、深仁親王様のお師匠様で学間・知識のすぐれた方でした。それで、朝廷より昇殿(宮中に上がること)、お紋幕をゆるされたお方でした。正法寺にこられてからのち、大僧都孝賢師をお使いとして、御免状四通、金五両をおくられましたが、栄任さんは、これをうけられず、人々はその徳をたたえて「徳僧さん」と呼びあがめました。
栄任さんは「栄澄」の号をおくられ、亡くなる前に「私のお墓は丸くつくらず、角にしなさい。この世にとどまり、苦しい人々を救いたい。」といわれました。今もまっ角な石塔に屋根をつくり、参詣の人が多いといわれています。
徳僧さんは、隠居されて岸影の小庵に住まれ、子供たちに学問を教えられました。現在の徳見堂で、明治五年(1872)大生院小学校が徳見堂の横に建てられました。これも、深いえにしであると思います。
(大生院 久枝一郎 談)
竜の谷の近く、戸星ノ鼻、半田山あたりは、いろいろの古蹟、土器、住居趾などが発掘されている。右斧、つぽ、瓦なども完全な形で発見ざれた。最近高速道路の工事により、新しく縄文後期頃の住居跡が掘り出され、小中学生をはじめ考古学研究に興味ある人々で山がにぎわった。これに限らず、この地一帯の保存について考える時がきていると思う。
このあたりは「しめしが成」といわれ農耕のあとがみられ、神社を祀り昔の人々の生活のあとがしのばれる。
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96.お城主様のお話
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大生院の戸屋ノ鼻にある城山は、今はほとんどが墓地になっています。しかし、その頂上にはサクラの花が咲き、お城主様の「ほこら」があります。
「工藤兵部裕重ノ居城、天正年間(1580年ころ)ニ亡ブ」と、記されていますが、村人は、落城の時にお姫様がお城を落ちのびられたと、伝えています。また、お姫様のお供をしたのはイノシシであった、といっています。村人は、夜更けてはこのあたりは、通行せぬようにしでいました。月のうち、一回(十五日)は、お城主様が城山にお帰りになるので、その行列に行き合わせると、災難に遭ったり、命を落とすといわれていました。
昔は、行列の馬にけられたとか、川に落ちたなどいう人もいましたけれども、今は住宅が立ち並び、昔から死人を荼毘にしたところにも墓石が立ち、周りは住宅でいっぱいです。
昭和の二○年頃までは、お葬式は行列でする所が多く、綿の木の間の細い道を、女の人が、白い薄衣を頭からかむり、葬列に従ってゆっくり山を登って行く様子は、まるでお姫様の行列のようで美しいと思いました。安住の地に眠る魂が、静かな夜を願って伝えた話でしょうが、今は城山をつゝむ住宅地の街灯が、アスファルトの道を照らしています。
盆、正月の夕暮れ、城山にともる灯を、見守ってきた先祖の人々が、子や孫に、いつまでもこの山を守ってほしいと願っていることでしょう。
(大生院 久枝麻五郎 談)
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97.渦井川の川止め
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渦井川は、奥深い川のため時々大水が出ることがありました。
川止めについては、いろいろおもしろい話がありまして、川止めになると、村の若者たちが、渡しの主人公となりました。丸裸でふんどし一つ、旅人をつぎつぎと渡してゆきました。水の多いときは、一人を三人ぐらいで渡し、男も女も子供も、区別がありません。
若い女の人は恥ずかしがったりしておもしろい風景をたびたびみました。
当時、川の東西には宿屋もなく、十人ぐらいの男の人が渡しをしていました。
大生院の川東、川西の間でいろいろな話が残っています。薬師祭に来て帰りは大雨、そのまま正法寺に泊り、旦の上に田植えに行ってジ川止めとなり一泊してしまうなど、今では考えられません。
このような光景は、台風のたびに起こるのですから、私たちは子供のころ「川止め」と聞くと、それ行け、と走ったものです。水の多いときは、大人の胸くらいの水の中での作業ですから、大人の見物も多くいました。
このような時代を過ぎて、大正末期やっと木造の橋ができ、その後、昭和三○年ごろ、現在の十一号線ができたのです。
渦井川とは、大水の時「うず」をまいて流れたからという人もあり、昔大生院の豪族であった、秦氏の京都の邸内の井戸「うすいの井戸」からとったともいわれています。老人の話では、昔はこの川は、今より山よりを通り、岸影なども、その岸辺であったと思われます。渦井川の渡しは、ミニ大井川の光景だったそうです。
(大生院 故 渡辺政雄 談)
馬椿の花
小さくて、開ききらない少女のような花
渦井川の上流、ツバキの大木の群生した所がある。昔、荷役に疲れた馬が、足を折り死んでしまった。飼主は悲しみ手厚く馬を葬い、その周りにツパキを植えた。年をへてツバキに花が咲いても、普通のツパキのように開ききらず、飼主の気持ちをつたえるようであった。この地を通る人々はこの馬塚にまいったといわれている。
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