1.新須賀が天領だった。
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新須賀が、天領であったので、他藩で罪を犯した人がよく新須賀へ逃げ込んだということです。新須賀の庄屋は吟味役もつとめ、罪人を裁いた。
罪の重いものは牢に入れた。なお罪の重いものは別子の銅山に送られ、銅山で重労働に何年も従事させられたものもいた。また、新須賀は現在より広く、国領川の東側にもあり、今の東雲・小松原・清水町あたりも含んでいた。
(新居浜公民館老人たちの話要約)
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2.庄屋とエンコウ
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昔、新須賀、国領川の音戸に御引淵というところに、いたずらもののエンコウ(かっぱ)が棲んでいた。
村の庄屋岡田新兵衛が、その淵のそばに、ウマをつなぎ仕事をしていた。ところが、エンコウが出て来て、ウマのたづなを自分の体に巻きつけウマをむりに淵の中へ引きずり込もうとした。
ウマはびっくりして急に跳ねあがった。そのとたんにエンコウの頭の皿の中の水が飛び出てしまった。
頭の上の皿の水を失うと、エンコウの力がなくなり、ウマは力のかぎり走り、エンコウを引きずって家に帰った。
庄屋は、エンコウを座らせて、今からのち悪いことをしないようにと諭し、許してやった。エンコウは幾度も頭を下げておわびし、うれし涙を流しながら、御引淵に向かって帰っていった。
その次の日からエンコウは、お礼のしるしに、毎日のように一匹のタイを持ってきました。ある日のこと、女中がちょっとしたことでエンコウを大きな声で叱りつけた。それ以来エンコウはタイを持ってこなくなった。
(愛媛の伝説 合田正良 引用)
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3.菊本龍神さん
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住友化学菊本製造所の正門、保安詰め所のすぐそばに、龍神さんを祭った聖域がある。緑に囲まれたこの一部は、とても工場の中とは思えぬほど美しく立派である。
竜神さんは、木造りであまり大きくないが、何かしら神々しい感じがする。この龍神さんのそばに、合田正良さんが由来を書かれた、木製の立て札が立っている。かなり古く、字も薄くなって読みづらいところもある。それを要約すると、新須賀の地は、永禄三年(1560)河野道孝が拓いた。次いで寛延の初年(1748)菊本氏が、元須賀(元塚)まで開拓した。菊本氏は信仰が篤く、大々的に開拓する時、神の加護を求め、海の守護神である龍神さんに一本のマツを植え奉斉して、干拓工事の安全を祈った。
それ以来、この地を龍神さん、龍神産の一本松と呼び、付近の人々の信仰を集めている。工場ができ、マツも枯れてなくなったが、今も七月四・五日に祭りが行われている。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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4.壇原神社・柿の木神社
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新須賀二丁目五・敷島通り北側に、壇原神社という小さなお宮がある。大権現さんと呼んでいる人もいる。文禄年間(1592〜1596)阿波の国より新須賀に移って来た人々が、一面にアシが生い茂っていた新須賀の地を、少しずつ開墾して作物ができるようにした。姑橘村としようか、岡田村にしようかといっていたが、村名は新須賀と決めた。壇原の宮は、ずっと昔鎌倉時代に栄えた、壇原大権現さんにあやかって分祀して、壇原神社と呼び、今も旧六月十五日にお祭りをしている。
柿の木神社は、壇原神社のすぐ東にあり、岡田氏が代々主として祭っている。岡田氏は河野氏の一族の子孫といわれ、新須賀へ移ってきて、現在に至っている。うら盆の日にお祭りをしている。この祭りのときに、神様へお供えしたものは、その場で、お参りした人で残らず食べて帰る風習が、そのまま今も守られている。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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5.祇園社の石灯籠
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新須賀四丁目の二と三の境の小路の両側に、城下より菊本にいたる路の東側に自然石の灯籠がある。この灯籠は祇園社の灯籠で、昔そこに小さな社があり、毎年七月十四日にお祭りをしていた。社殿がなくなり太鼓台にこわされた石灯籠を修理して現在に至っている。
また、新居浜には大江にも祇園社があり、祭りには屋台なども出てにぎわった。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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6.国領川の土手のお地蔵さん
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昔から国領川の土手が何回か決壊したらしく、土手も今のように一つでなく二重・三重になっていたらしく、二番土手と呼ぶものが今も残って道路になっている。国領川西岸の二番土手の今の菊本町二丁目あたりに、お地蔵さんがあった。
そのお地蔵さんは、六十六部さん(江戸時代に諸国の神社仏閣を巡拝した行者)が、そこで、病か何か原因は不明であるが亡くなったのを、付近の人がきのどくに思い、お地蔵を建て菩提をとむらったといわれていた。そのお地蔵さんは、都市計画のために移転されて、今は新須賀の円福寺の境内で祀っている。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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7.葛淵
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昔々、石鎚山の神さまが、近くの笹ヶ峰へ登った。この山は石鎚とちがってなだらかで、頂一帯はクマザサが生い茂る美しさに、しばらく滞在し、山の八合目に住居所をつくり、近くへ「日月」の二つの池を作りました。この池の水は清く澄み美味な水でした。
神さまは、「こんなにいい水を、里人たちにも味あわせたいものだ。」と考えられ、小石を拾い「この石の落ちた所へ、日月の池と同じ水が出るように。」と唱えながら力一杯投げると、新居浜浦の山の南側に落ちて池となり、次いで石を投げると、山の東側に落ちて池ができた。三度目は三メートルほどもある石を「もっともっと浜辺の方に大きな池ができるように。」といわれ投げると、底知れぬ深い池ができて、美しい水が湧きあがった。「あの水は、浜辺に近いから、辛味があるに違いない。しかし、真水ばかりよりも、御飯を炊くと、とてもおいしいだろう。」とたいへん御満足になった。
里の人たちはたいへん喜んで、最後の池を「葛淵」と名づけた。ある年に、大日照がして、田畑の作物が枯れそうになり、雨ごいしても一粒のあめも降らず困りはてて、みなで相談の結果、、「笹ヶ峰へ登って雨ごいをしよう。」と決まり、葛淵の水を「ヒョウタン」に汲み、山に登り日月の池に水をうつし、下山のときは日月の池の水を「ヒョウタン」に汲み、葛淵へ「日月の池の水を龍王さまのおみやげに持って帰りました。」といって、池に入れお祈りしますと、にわかに大雨となり、田畑の作物も草木も生き返った。それからは、大日照の年には、葛淵の水と日月の池の水を交換して、雨ごいをするようになったといわれている。
いつの頃からか、葛淵の水は一宮神社のご神水として、正月七日の朝に神前に供えられるようになった。
今も葛淵の岸には、川ヤナギが生い茂り、池の中にはサカナがたくさん遊泳している。
(伊予路の歴史と伝説・愛媛の伝説 合田正良 一宮神社宮司 矢野峯義 稿)
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8.東町の観音堂
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この観音堂は、300年近く昔からあったらしい。昔はもっと広く、大きなマツやヤナギもあって、堂々としていた。町が発展し、保育園ができて、道端に面していたのが今の所に移った。仏様ばかりでなく、宮島さんも祠っている。古い姿のままの神仏合祠の珍しい社である。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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9.きん玉きりの淵
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菊本町二丁目あたりに国領川の伏流水が淵となっていた所があった。深さは一メートル五十くらいで、澄んだ水をたたえていた。夏など子供の遊び場にもってこいの所だったが、水があまりにも冷たすぎるので、男の子など水に入ると、きん玉が冷たさにちぢみあがってしまうほどだった。
あまりに冷たい水で、暑い夏に入ることは身体に悪いので、この付近の人は、「あの淵に入ると、きん玉取られるぞ。」といって、いつともなしに、きん玉きりの淵と名づけて、その淵に近寄らないようにした。
この淵も、国領川の伏流水を工場用水として汲み上げるようになって、水も涸れ埋め立てられてしまい、今は町並みになっている。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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10.こんこ林と一本松のタヌキ
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昔、国領川の河口青と尻の少し上流の川の中ほどに洲がありマツの木が広く生い茂っていた。それをコンコ林と呼んでいた。
今の新高橋から北へ約300メートルくらいの所にあり、川に水が出たときの渡る
目安となっていた。
また、今の住友化学菊本製造所の近くに、龍神さんの一本松と呼んでいた大きなマツがあって、そのマツにタヌキが棲みつき、人間にいたずらをして困った。人にけがをさすようないたずらでなく、持っている弁当を取ったり、道を迷わせるていどで、化かされても「タヌキのやつに化かされた。」くらいに軽くいったものだった。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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11.高せんぼ
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円福寺(新須賀二)の近所には、イタチがたくさん棲んでいた。イタチが背伸びして、一匹の上へ他のイタチが乗り、その上へまた乗って、高せんぼになるといっていた。夜道に背の高い高せんぼがよく出て人を驚かせた。
イタチはカニが好きで、円福寺の近所の溝にカニがたくさんいて、それを食いにイタチがたくさんいて、高せんぼになる。円福寺の松の高さほどに、高くなっていたこともあった。
大江(港町)、東須賀(港町)にも、高せんぼがでた。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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12.赤子淵
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今の新居浜小学校の体育館西のあたり(新須賀町三)に、「赤子淵」と呼ぶ沼地のようなところがあり、アシや川ヤナギなども生えており、尻無川の川尻で、海水も満ちてくる。
国領川と尻無川の伏流水の集まるところのためか、底無し沼のようになっていて、あまり人々は近寄らなく夜は特に人通りがなかった。夜にその淵の近くを通ると、赤子の泣き声が聞こえてくる。赤子の泣き声にちがいないと、誰いうこともなしに、あそこは「赤子淵だ。」と言うようになり、子供なども夜は近づかなくなった。その赤子淵も、西は尻無川、東は円福寺の北側まで千平方メートル近くの広さがあったが、現在は埋め立てられて町並みや学校などになっている。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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13.ゆるぎ(ゆるぎ沼)
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尻無川の川尻、今のスーパーフジの北駐車場あたり(新須賀二)に「ゆるぎ」という沼地があった。その沼地に浮島の様な小さな島らしいものがあり、そのものは永年かかって浮草や植物・土などが堆積してでき、雑草や雑木の小さいものも生えているものもあった。島の端を手でゆすると動くので、人々は「ゆるぎ」と呼び、「ゆるぎ沼」ともいった。
沼の中は、ヘドロが深く水の中にあるので、沼に足を入れると、ヘドロに足をとられて簡単に足を抜くことができずおぼれることが度々あったので、大人達は子供に「ゆるぎであそんでいておぼれると、もう上がることができん。死んだら死骸は御代島にあがるから行くな。」と、いっていたので、子供はゆるぎの沼に近寄らなかった。
ゆるぎの島にはヤナギの生えているのや、たぬきもいた。沼にカニがたくさんいて、タヌキはカニが好物で、それを捕え食べていた。タヌキの棲む穴もたくさんあったという。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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14.厄除け大師と庚申堂
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厄除け大師は新須賀一丁目五にある。昔はもう少し西にあった。菊本庄内線が、市営球場東側−高専西側と道路拡張で東の方へ移転した。毎月20日にお祭りしている。歩けなかった人が歩けだしたなどと、信仰する人に、いろいろな厄を除いてくれるので、毎月の祭には信者のお参りもある。
庚申堂は、厄除け大師の東の方にある。入口は東側であったが、今は西に改められた。
この庚申堂は、昔、国領川のすその海辺に流れついた庚申さんを、お堂を建てて、ここにお祠りしたと言われている。昔から「話は庚申さんの晩にせよ。」と、いっていた。この日、人の体の中にいる三匹の虫が、人の眠っているうちに天に上って、人の罪を神に訴えるから眠らないで話し明かせよといって教えたものだ。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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15.念仏橋
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尻無川の河口近く、港町の排水ポンプ場の近所に、昔、川東から新居浜浦へ行くのに石の橋がかかっていた。この橋を念仏橋とよんでいた。
昔、白石又兵ェさんと、白石信三さんが中心の世話人となり架けた。お金がないので念仏講を作ってわずかずつのお金を集め、長い年月をかけて代金を払ったそうです。橋の欄干は金不足でつくれず、このため橋から何人も落ちたことから、後の人は誤解して、人が落ちたから念仏橋だと思っていた人が多かった。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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16.新居浜の港
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新居浜は海に面していたが、港らしい港は少なく、自然の入江の様な所を使用していた。港は近くに多くの住民や物産にも必要であり、新居浜では尻無川の河口が一番早く開かれた港であった。念仏橋付近は、港としては海が浅く不適当と思われるが、昔は舟も小さく潮の干満を利用すれば、港としての機能を十分満たすことができた。
西条藩の奉行が、新居浜に来る知らせが伝えられると、新居浜港から出迎え舟が旗幟を舟の舳に立てて丁重にむかえたそうです。その旗などは今も大江で保存しているそうです。港の潮が引くと、子供たちは海に入って、手長エビを良く獲った。港は、泥やぬでなく気持ちのよい砂地であった。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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17.特権をあたえられた漁師
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大江(港町)に、今から230年ほど昔(1760)井上三郎ェ門という漁の名人と言われた人がいた。
みごとなタイを毎日獲っていた。それまで見ることのできないりっぱなタイが獲れたので、はるばる西条の殿さまに献上しました。
殿様は非常に喜ばれ、おほめになり、ほうびとしてりっぱな槍をくださった。
井上三郎ェ門さんは、その槍を漁船の舳に立てて漁をし、一番よい漁場で漁をする特権があたえられた。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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18.タイが獲れすぎた話
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今は、新居浜の沖ではあまりタイは獲れないが、昔のこと、大江(港町)の漁民が置きに出てタイ漁をしていた。どうしたことか、その日にかぎってタイがつぎからつぎへと網にかかり、いくらでも獲れた。しまいにはタイが獲れ過ぎて、浮袋に空気をいっぱい入れたタイが、自分の力で浮び沈むことができなくなり、浮いたタイの上にむしろを敷いて座っても沈まなかった。それ以後こんなにタイが獲れたことは一度もない。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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19.東須賀の大火と牛の宮
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明治29年(1896)東須賀(港町)に80軒も焼けた大火があり、多くの人が被害を受けた。それからあとは、東須賀の人は細心の注意をして火の用心に気を付けたので、東須賀にはその後一件も火災が起こっていない。
いつの頃かくわしいことはわからないが、牛の宮という小さな社が祭られる用になった。この牛のみやは、ある時の火災で家が焼失した時、火の廻りが早かったためか、家の人がウシを連れて逃げることができなく、ウシ小屋の中で焼け死んでしまった。家の人は、それを哀れに思って小さな祠をつくって牛の宮として、ウシの菩提をとむらってやった。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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20.子授け地蔵さん
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昔ある漁夫が大江(港町)の沖で網を引いていた。かなりのサカナが網にかかった手ごたえがあったので、網をあげると、サカナとともにお地蔵さんがかかっていた。漁民はだいじにお地蔵さんを持って帰り、お供物をしてたいせつにお祀りしていた。
近所に信心深い夫婦がいて、この地蔵さんを譲ってあげた。この夫婦は子だからに恵まれていないが、毎日手厚くお祀りをして、深く信心をしていますと、しばらくして子供が生まれた。この話を聞いた子供のいない夫婦が、その地蔵さんを貸してもらい、お祀りすると、子供に恵まれた。誰いうこともなく、人々は、子授け地蔵と呼ぶようになった。西之土居の夫婦や垣生の人も、この地蔵さんをお祀りして子供を恵まれたといっています。
子授け地蔵さんは、今も港町に祀られている。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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21.遍路地蔵
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いつの頃か、生国も名前もわからないが、一人の遍路が金子川の金栄橋付近をねぐらとして棲んでいた。近所の情け深い人が家に泊めて、家族同様に新設にして生活をしていたが、三ヶ月も過ぎても出ていかないので、遍路を追い出した。
ところが、遍路はまた橋の付近をねぐらにして住んでいたが、まもなく死んでしまった。その後、その家に不幸が続き、遍路のたたりであると、地蔵様を祀って霊をなぐさめた。その家には、その後不幸が訪れる事はなかった。
昭和3〜10年頃は、夏の旧盆には、この遍路地蔵の祭がにぎやかに行われていたが、戦後は夏祭りも絶えてないのは寂しいかぎりである。
(金子 星加康光 投稿)
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22.「つれていのぞやお月がでたら」の唄の起源と史実物語
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つれていのぞやお月が出たら
伊予の金子の伊予の金子の御城下へ
この唄は、元禄時代(1688ー1703)から、中予、東予地方で、広くうたわれていました。
今も、川内町、北条市にも残っているそうで、昭和55年愛大教授・和田茂樹先生が、「わが郷土うたの古里」にも発表されています。
また近年金栄校区に復活した「トンカカサン」の踊りの唄の中の一説にも、この唄が取り入れられております。
別子銅山は元禄3年(1690)に発見されたといわれていますが、これは峰より南側で、峰から北側は、ずっと以前より立川銅山といって採掘されておりました。次々と経営者が変わっていき、元禄5年(1692)には、金子村庄屋、真鍋八郎衛門一族の真鍋甚右衛門、立川山村庄屋、神野藤兵衛の三人が経営をしておりました。
ところが、住友が採掘を始めた綾南の別子銅山は、日増しに業績が上がるのに反して、立川銅山はいっこうに業績が上がりませんでした。これは後世なってわかったことですが、別子の銅脈は峰より斜め下に向かって延びていたのでした。当時の知識ではそのようなことは、はっきり知ることはできませんでしたが、南に鉱脈のあることを通告したのは、当時立川銅山で働いていた、切上り長兵衛という鉱夫でした。彼は以前は住友でも働いておりました。
住友は幕府に願い出、元禄4年(1691)より採掘を始めました。即ち別子は幕府側、立川は西条藩側となり、双方の対立が激しくなりました。その上元禄7年(1694)4月別子の大火災が発生し、火に追われた部市側の130人余りの人は、やっと峰を逃げてくると、北側の立川からも火が燃え上がって全員焼け死んでしまいました。いろいろなうわさが流れましたが、北の火は、南からの飛び火とわかりました。
そして翌元禄8年(1695)4月25日、別子側の坑道と立川側の坑道が抜けあったのです。お互いの領分を侵したと言って大争いとなり、ついに大裁判となりました。元禄10年(1697)2月4日、幕府から判決が出され、立川側は敗訴となり、幕府の領分を侵した罪で責任者の真鍋八郎衛門以下三人は二年間、江戸の牢屋に送られました。
労に入れられた庄屋さんは身の不運を嘆き、日夜、愛宕明神を拝しお願いしていました。9月23日の夜半、故郷伊予の金子の事を思い、悲しみと無念の気持ちで、一心にお祈りしていますと、美しい声色の歌声が聞こえてきました。
つれていのぞや お月がでたらでたら
伊予の金子の伊予の金子の御城元へ・・・
八郎衛門は、望郷の念にかられ、思わず牢の扉に手を触れますと、鍵がかかってなく戸は開きました。早速牢を出て月明かりをたよりに西条藩に逃げ込みました。
その後、何日たってもおとがめもなく、西条藩の殿様がお国入りの時、一緒に帰ってきました。一説には、幕府側も非を悟り、内々に牢から出すために仕組んだ芝居であったといわれます。
なお立川山庄屋、神野藤兵衛は刑を終え帰郷、残りの真鍋甚右衛門は牢死をしたとも伝えられています。
金子に帰った八郎右衛門は、その後も庄屋をつとめ、愛宕明神様を金子城址にお祀りし、守り神として代々お祀りをしています。今も子孫の人々によってこの御供養が続けられています。
この唄は、徳川時代、中予、東予一円にうたわれたということは、当時の幕府の権力に対する庶民の不満のはけ口であり、苦しい農作業の間のやすらぎを求めて唄ったものと思われます。
立川銅山は、寛延二年(1749)に別子と合併され、日本一の別子銅山として繁栄しました。真鍋庄屋も明治に至るまで、代々金子村庄屋として郷土のために力をつくして、村人からも尊敬されました。現在、西の土居のお茶屋観音堂の前に、一メートルくらいの美しい御顔のお地蔵様がたっています。また右上にりっぱな墓碑も建っています。
真鍋庄屋の御先祖は、金子備後守の母親の出里で、天正の陣の戦いでも勇名を残している。真鍋六人衆の子孫です。
(西の土居 藤田敏雄 投稿)
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23.寛吾爺さん
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今から130年ほど昔の安政(1854)の頃、庄内の梅が森(庄内一丁目字白木、金子公民館東方)に寛吾爺さんといって、百姓のかたわら、俳句や和歌、即興句を詠むとんちのきく、おもしろい老人が住んでいた。村の人は、寛吾爺さんと呼んでいた。文字にすると寡語(かご)だろうとと説もある、寡(くわ)は、饒舌の反対言葉で、すくなく唄とか即興句で、その趣や意志を表現したという意味の名前にも受け取れる。
爺さんの家は、貧しかったので、村の集まりにも呼んでもらえなかった。ある時の集まりのその場で歌を詠めと言われ、鳶亀(建築人夫)の羽織をつかみ、「このわし(鷲)がむんずととび(鳶)を」ひんづかみ欲のくまたか(熊鷹)又(胯)さけた(酒だ)と、皮肉った。
ある日、知人を訪ねると、内庭の隅から子ガニが赤いツメを立てて這いだしてきた。「なんぼ寛吾さんでも、あのカニの句は、すぐにはつくれまい。」と、ひやかされた。爺さんは、即座に「にわかに「庭カニいえるかい。」と、やり返した。
昔は、村の若い衆(若者)は、「めおい」といって、それぞれ食べる材料を持ち寄り、宿を決めて、「ごもくめし」などをつくって食べ、親睦を図っていた。ある日、ごもくめしがちょうど煮えた頃、いいにおいに誘われて通りがかった寛吾さん。うまく頭を使ってごちそうにありつこうと考え、「ついそこで夫婦げんかがあってのうし、婿はんは、物を投げて暴れるもんじゃけん嫁はんは、飯釜の蓋を、こうとって。」と、いいながら、ごちそうにありついた。
ある年の正月に、村の若い衆が、爺さんをばかにし、からかって、ふんどしを首にかけふざける。爺さんは、少しも怒らず「正月や首にかけたる金袋。」と、やり返した。
村を歩いていると、ダイコンの双葉が出たところを、ムシに食い荒らされて怒っている百姓を見、「まこと、根も葉もないのうし。」と、なぐさめた。或る時、土地の境界争いをしている二人に、「真ん中に出てものをいう境石。」と、みごとに仲裁をした。
ある農家で、飼いウシがむしろに干していた荒ムギを二枚(約36リットル)も食べ、ウシの胃の中で、ムギがふくらみ、生死の境を苦しみもがいているのを見、「心配は無用じゃ、ウシには胃袋は、たくさんあるぞな(ウシには胃が四つある)、心配ない、生き返る。」と、励まし勇気づけ、長時間胃袋の上を、縄でつくったタワシで、ゴシゴシこすって生きかえらせた。
あるとし、都へ向かう途中、山城の関所にかかったが、通行手形がないので、とおしてくれない。爺さんは、「身は予州(伊予の者よろしうござるかとかける)表は讃州「心は晴れ晴れしとる。)阿州(悪う)ない者、土州(通し)しゃんせ。)と、四国四県、愛媛・香川・徳島・高知を、たくみに歌に詠みこみ、ぶじに、関所をとおしてもらった。(注、出城の関所は徳島にあった。)
都に入り、芝居見物に行き、おもしろうないので、(ちっともおもしろくないぞ。」と大声でどなった。舞台の役者は、「田舎ザルめが上り来て、何をいうやら語るやら。)と腹をたてた。爺さん「田舎ザルめが上り来て、都のカキを食い荒らし、楽屋のうちは下手(蔕)ばかり。」と、いい返した。
高木(高木町)へ新築のおこうろく(無償奉仕)に息子を代理に行かせた。一服の休みに、「寛吾さんの息子なら、あれを歌にして見よ。」と、いわれた。見ると、庭のマツの木に、仕事場の菰が、新しいのや古いのが乾かしてある。息子は歌が詠めぬので、寛吾さんに教えてもらって、「マツの木にサギ(新菰)とカラス(古菰)が巣をつくり、白い子も(菰)あり黒い子も(菰)あり。」と詠んだ。
正月の餅をついたところ、四十九という縁起のよくない数で、困っていた庄屋に寛吾三が招ばれ、「これは、めでたいことじゃのうし。」「七つずつ七福神にそなえたら四十九になろうが(賀)のもし(餅)。」と、詠んで、庄屋さんを喜ばした。
ある素封家で、旦那がだいじにしていた土瓶を、正月早々に下女が割った。縁起でもないと、早速寛吾さんを呼んで歌を詠んでもらった。「元旦にどん(鈍)と、ひん(貧)とを打ちこわし あとに残るは金のつる(蔓)かな。」と、めでたく納めた。
我が子の三十三日に、氏神さんへ祈願の途中で、包みを拾い開いて見ると、袈裟と数珠であった。縁起直しに「今朝(袈裟)拾た数珠の数ほど この吾娘に命拾えと畏み申す。」と詠んだ。数珠の玉の数は、108箇で、子の長寿を願う親心である。
また、テンカン病の人が、正月早々に門松のそばで倒れているのを、「門松にもたれあわふく(福)の神。」と詠みかえした。
ある年、伊予小松一萬石の藩邸の、殿様自慢のりっぱなマツが時化(台風)で倒れて、たいへん悲しみしずんでいる折りに、寛吾さんが召し出され庭を拝見、即座に「大マツは倒れても 小マツは栄える>」と一句詠み、さしあげ面目をほどこした。殿様はたいへんに満足され、たくさんのご褒美をくださった。
また、一人の侍が、女中に誤って泥をかけられ「この女め、人の晴着に泥をかけて、どうしてくれる。」と、女中をとらえて、どなりつけている場に出会った寛吾さんは、さっそくに一句をひねり、「行きかかる来かかる足に泥かかる 足軽おこるお軽こわがる。」と中を取りもって、無事に納めた。
自分のかわいい娘を、隣の郷村(郷町)に嫁がせ、はなむけのことばに、「これ娘庄内(性無い)者と思うなよ 郷に入れば郷にしたがえ。」と、教えている。
しかし、失敗もあった。片目同士の夫婦に、「二人して一人の目とはいとしかるらん。」と、からかうと。相手もさる者、「梅が森の巣を追われたるウグイスめ
白木の籠(寛吾)にこもる哀れさ。」と返歌され、さすがの爺さんも一本まいったという。また、こんな歌で皮肉られてもいる。「ウグイスなら梅が森にも住もうものが 白木にとまるカワクリ哀れ。」
(註、カワクリとは、嫌われ鳥。)
寛吾爺さんは、小林一茶・種田山頭火のごとく全国を放浪し、晩年、当市庄内町梅が森に住み、ここで歿したといわれている。菩提は、庄内地蔵墓地内にあったが、現在は、無縁塚とのことである。
(庄内 林金二郎 投稿)
金子の地名(ケハイデン)
現在の庄内にあり、ケハイは、ケワイ、「化粧田」のことである。
「化粧」は大祭の日の舞女を意味し、昔は普通の女はめったにしなかった。白粉を塗り、紅をつける女性の給与のため特に一区の神田があった。如何に、昔は化粧がたいせつであったかが知れる。ここは宗像神社に関係がある化粧田である。
別に昔、国司郡司が地方巡視の時、ここで装束をなおし、休息してから巡視にまわったという化粧田もある。
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24.タヌキの話
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タヌキは、日本にはエゾタヌキ(北海道)と、ホンドタヌキ(本州・四国)の二種がいる。エゾタヌキは体が大きく毛深い。ホンドタヌキの方は、やや体が小さく毛浅く、体全体が黒褐色、エゾの方は褐色帯は肩のところで消えている。犬科に属し、夜行性で利口な動物で、子飼いのタヌキはきわめて人によくなれ人の手から食物などを食す。雑食性で、小鳥・ネズミ・へび・カニ・果物・穀類に及ぶ。木登りも上手。
世にいう「タヌキ寝入り」は、ショックによる仮死の状態であるという。動物学者石城謙吉氏の説によると、これは意識的に死んだ振りをするわけではなく、突然の強い刺激によって、自律神経の失調が起こり、アドレナリン副腎髄質の急激な分泌を引き起こして、一種のショック状態になるのだと考えられている。大名行列を演じたり、源平合戦の話を語ったりする阿波(徳島県)のタヌキの話は名高い。
タヌキは人になつくものといわれるが、犬神やキツネほど信仰化されることは少ないが、新居浜でも一宮神社の小女郎狸が有名で、周辺の金子にも庄内、滝の宮、馬ぶち、久保田、王子、生光地山、原狸などの話が多い。
(庄内 林金二郎 投稿)
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25.一宮の小女郎狸
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昔、立川の奥の小女郎谷に一匹のタヌキがいて、夕方になると美しい娘に化けるので、人々は小女郎狸と呼んでいた。
小女郎狸は神通力をもっていたので、一宮神社の神さまに見込まれて、眷属(お使いもの)として抱えられ、一宮の森に移ってきた。
平素はおとなしく神主さまのいいつけを守り、お気に入りになってかわいがられていた。
ある夏、一人の漁師が一匹の初タイを奉納した。神主はお供えしたサカナを台所に置いていった。
これをクスの木のほこらにいた小女郎狸が、神主のいない間に取って食べた。夕方になって神主が知り、たいへん立腹して、「タイなど盗むような奴は眷属の資格がないから、今日かぎり一宮の森から追放する。」と追い出された。
困った小女郎狸は、慈眼寺の和尚に化け「大阪に行きたいのだが、この船に便乗させてほしい。」と船頭にのせてもらった。
何日もの船旅で、腹のへった小女郎狸は、積荷のタイをごちそうになった。船頭に正体を見破られ、おわびをし「私は、一宮の森の小女郎狸です。神主さんに追い出され、大阪へ行く途中また悪いことをしました。罪ほろぼしに、黄金の茶釜に化けて損を取り返します。」と、茶釜に化けて、古道具屋に高く買ってもらった。
道具屋は、金の茶釜を大切にしていたが、ある日、よくよく見ようと、えんがわへもち出したときに、茶釜を取り落とした。庭の隅に落ちたはずなのにどうしてもみえなくなってしまった。
小女郎は、日の暮れるのを待って、きれいな娘に化けて庭から抜け出し、大阪の町を道頓堀、千日前と歩いた。道行く人は、「なんて、きれいな嬢はんやこと。」「ほんま、どこの娘はんでっしゃろ。」と立ち止まり、振り返って見るので、木をよくした小女郎は夜中まで歩きまわったが、行き先がない身で、友達のいるしのだの森を訪ね、長くその森に住むことになった。
小女郎もでるとよ今日の神迎 樟坡
(庄内 伊予時の歴史と伝説・愛媛の伝説 合田正良 抜粋)
一宮の大クス
一宮神社は、村の氏神さまとして、1000年余りの昔に建立されたと言われています。
その社の参道や境内には、たくさんの大クスが茂り、国の天然記念物に指定されて居ます。その一番くすの根廻りは14.9メートルもあります。その元にほら穴があり、そこに小女郎狸がすんでいたといわれています。
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26.垣生の塩売りさんを化かす原のタヌキ
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原は、現在の東雲町東高等学校の南・国領川沿いの位置にあり、村落としてはごく小さかった。「原八軒井戸一つ」と呼ばれていた。この周辺は砂地で、主として、カライモ・トウキビ・ムギ・クワなどをつくっていた。じつにさびしい松原地帯であった。
ご承知のごとく昔は、味噌・しょうゆ・ダイコン漬けのシーズンとなると、まとまった塩がいるので、川東から垣生の塩売りさんが国領川を渡って川西へ売りに来ていた。いでたちは天秤棒に竹で編んだ大籠一荷、約役六〜七斗くらいの塩量である。
塩はほとんど予約で、籠じまいが早い。昔は国領川に橋が少なく、はるかしもの新高橋をを通ると大回りになるので、近道を選んで今の原の在を越え川西へ出る。さて帰りも同じコースを選ぶ。昼はここの松林がちょうどいいので手べんとうを開く。ここに棲むタヌキくんも腹をすかしているので、どくれを始める。原タヌキは塩売りさんの帰り道を迷わしたり、むじゃきないいたずらをするていどであった。
前に化かされた一人の塩売りさんは、「今日こそは原のボロダヌキに化かされるもんか。」と、塩籠に天秤棒を渡し、その上に腰をおろし、タバコをとり出しいっぷく吹かしていたはずであったが、そこを通りかかった老人は、こりゃおかしい。
「あんた、さっきから誰と話しよるんぞなもし、キセルに砂やかつめこんで。」と、聞かれてふとわれに返ったそうである。
ちなみに塩売りさんが一升「1.8リットル)マスに塩を盛り、一升単位に量る時、手のひらをますに直角に手早く水平に引く。よく見ると正味一升に満たない9.3合(1.67リットル)くらいしかない。1斗(18リットル)売れば7合(1.26リットル)、2斗売れば一升四合浮いてくるわけである。これは目一杯で、売り手を責めない。量りの腕にまかせていた。マスに塩を盛る時、塩をほぐして塩の空間に空気を通し粒子をふくらますことと、一升マスの片棲みに左の親指を深く突っ込んでやるのがコツであるそうだ。
(庄内 林金二郎 投稿)
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27.天神の木・相撲とりタヌキ
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大正九年頃(1920)まで現在の新居浜警察署周辺は、堺すじから久保田入口まで約二丁半(250メートル)の間、尻無川に沿う土手にはマツ並木が続き、廻り100メートルくらいの沼地もあり、ドングリの巨木がうっそうと茂って、一望の田には夏はホタルがとび交い冬はカモもやって来る。カコウやフクロウも鳴いていた。川の流れは一間(1.8メートル)そこそこの尻無川であったが、メダカ・ハヤ・フナ・ドジョウ・ドチンコ・ウナギ・カワガニなどがいえ、子供達にとって川遊びの天国であった。
当時は、天神の木は人里からはなれた、さびしくタヌキの巣には格好の場所で、祖母や古老から「天神の木相撲とりタヌキ」の話はよく聞いた。
昔は、農家にとってたいせつな水田への水は自由に引けず、地区全体でつくった水当番制度によって水を管理していた。我田引水ということばのように、少しでも吾が田に水をたくさん引こうというのが人情で、人目を避けて夜中に尻無川の水を盗みに出向く者がいた。刻を見計らって、相撲とりに化けたタヌキが「もしもし、おいはんちょっと一番相撲とろや。」と、さそう。「今日はこらえてや。」「ええほうびあげるけん。」と、うまく化かして一番とらされる。「もう一番、もう一番。」と、いやおうなしに、へとへとになるまで相撲をとらされる。夜半から明方に、水番が見回りで通りかかると、マツの木に五体をぶっつけて、ヨイショ・ヨイショとけんめいに一人相撲をとっている百姓を、時々見かけたと話している。
河内の六地蔵(旧地名)のきもったま爺さんが、親戚の法事からの帰り、夜道を天神の木に通りかかった。ごちそうにありつけると計算した相撲とりタヌキ、うまく化けて「爺さん相撲一番とろや。」と、呼びとめた。「何ぬかす。」と、爺さんはタヌキをけとばして帰った。タヌキも負けてはいない。爺さんのあとをつけて、みやげにもらった重箱の中にある精進料理を、きれいさっぱりとさらってしまったという。
(庄内 林金二郎 投稿)
タヌキとキツネ
四国では、タヌキの昔話がたくさん聞くことができるけど、キツネの話はあまり聞きません。
どうやら昔、タヌキとキツネがけんかばかりするので弘法大師さんが仲裁に入り、キツネを中国すじへ追いやり、かねの橋ができたら返ってきてもよいと申したそうです。
瀬戸大橋がかかったのできっとキツネも帰ってくることでしょうか?。
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28.昭和三年頃の「にいざかい」付近
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にざかい 見はるかす野は 黄金波たわわに実のる 元塚近くも
にざかい だらだら坂の頂上よ 庄内行くも 久保田へ帰るも
昭和三年頃のにいざかいは、だらだら坂の頂上で、庄内の方へも久保田の方へも下りとなっていた。桜内橋の付近は久保田町の側はマツ林が続き、その西側はふる田で、道は尻無川沿いににいざかいまで北へ行き、にいざかいからは久保田及び庄内は通ずる道は六尺(1.8メートル)くらいで、大八車がやっと通れる曲がりくねった道で、周囲は稲穂やムギ畑が見渡すかぎり広がっていた。
尻無川は上流も下流も、水の流れているのは三〜四尺(0.9〜1.2メートル)くらいで、六〜七尺(1.8〜2.1メートル)くらいの石橋がかかっていた。
にいざかいは、現在の新居浜警察署の東側あたり、庄内橋のあたりで、金比羅参りの時は、水さかずきを酌み交わして旅に出、にいざかいあたりで別れを惜しんでいた。
(金子 星加康光 投稿)
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29.六地蔵のおんぶタヌキ
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金子川の久保田の西南側で川西の川内に、人々の幸福を祈って六体の地蔵が祀られた六地蔵(旧地名)があり、今は神楽場と呼んでいる。
秋山の爺さんのかっぷくから、地の人は六地蔵の西郷さんと呼んでいた。今の久保田黒住教会前に大クスの木があり、その下を爺さんが通りかかると、雨が降るように砂がパラパラと落ちて来た。三度も出会うので、「今日こそ許さんぞ、おりて来い!」と、どなりつけ小石を投げつけると、それからはいたずらをしなくなった。
あるおぼろ月の夜、教会の前を通ると、きれいなばば(着物)を着た美人が「もしもし爺さん、わたしは足が痛うて歩けんので、向かいの土手までおんぶして渡してくれまいか。」と、しきりに頼むので、爺さんは「よしよしわけのないことじゃ。」と、女を背負ってやった。ところが、大きなしっぽが手にふれた。これ幸いと爺さんはしっぽをしっかりとつかんで「タヌキちゃんよ。わしを誰と思うとるのか、今晩こそはだまされんぞ、連れていんでタヌキの正体を見破ってやる、かくごせい!!。」と、川を渡り終わろうとすると、タヌキは、「これから人をだまさんけん、どうぞ背からおろしてください。」と、必死に哀願するが、「お前はそういいもて、人をだますじゃけん絶対におろさんぞ、タヌキ汁にして食うてやるけんかくごせい。」と、こっぴどく戒めて助けてやった。
爺さんの恩を知ってか、その後は、このおんぶタヌキは人を化かさぬようになった。
(庄内 林金二郎 投稿)
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30.久保田の地蔵様
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金子小学校西通用門を南に100メートルばかり行った四つ辻の西南の所に、お地蔵様を祀ってある。
昔子の四つ辻の北東に、溜池があった。溜池の所にお金持ちの屋敷があり、多くの下男や下女を雇っていた。屋敷では下男や下女は、現在と異なってきびしい法度で働かせていた。特に男女の仲についてはきびしかった。屋敷で働いていた男と女が仲良くなったが、結ばれて夫婦となることもできなかったので、二人は手を取り合って池に身を投げて死んでしまった、。付近人が、二人の霊をなぐさめとむらうために、お地蔵様をお祀りした。
(金子 星加康光 投稿)
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31.「さいかど」のタヌキに化かされた話
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昭和十三年(1938)夏の夜、久保田の青年が、さいかどの付近を歩いていた。
このころは、ふる田やレンコン池だけの人家のないさびしいところで、ふる田の溝の方で「しゃぶしゃぶ、しゃらしゃら。」と何かを洗うような音がした。何ごとだろうとしばらくその音の方を見ると、20歳過ぎの美人が現れた。あまり美しいので、青年はその後を追ったが、いくら足を速めても、どうしても」美人に追いつくことができないので、一生懸命に追っかけ続けた。
「兄さん兄さん、目の色を変えて、あんた早足にえらい急いでどこへ行きよんぞな。」と、呼びとめられた。「あーおばはん、おたきや久保田へいによんじゃ。」と、答えた。「ここは新高橋ぞな、沢津の方へ向いていっても家へ帰れんぞな、おたきといっしょにいなんかな。」と、いわれてそのおばはんと久保田まで帰った。
さいかどは、金子川(東川)がもっとも曲がっている所で「最角」と、いうのであり、現在の港橋(中須賀町一)の東側あたりである。
(金子 星加金成 投稿)
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32.滝の宮切りぬきタヌキ
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別子銅山の鉱石を鉄道で端出場から惣開まで運ぶため、滝神社(滝の宮町)の山の一部を切り開いて鉄路がつくられた。明治25年(1892)から、ドイツ・ミュンヘン・クラウス製の列車が、昭和25年(1950)まで走っていた。鉄路に沿って鉱水路が設けられ、歩道として利用していた。
ここを、滝の宮切りぬきといって、人通りの少ないさびしい場所であったが、新居浜から上部の中萩・角野へは最短の近道で、浜の魚屋も利用して、滝神社の一の鳥居前の老松(樹齢250年くらい)の元で休むことが多かった。
魚屋のおたたさんは、いばち(たらい)に魚を入れ、頭に載いて商いに出る。ここのタヌキは、魚が大好物で、魚をねらって昼間から人をよく化かした。ある日、おたたさんたちは、いばちを置いて小用に行き戻って見ると、いばちの魚が全部取られていた。
魚の売り残りがある日には、通りすがりの人に化けて、「もしもしおたたさん、残りの魚をわたしにみんな売ってくれんかのうし。」と、声をかけて近づき、「もう籠払いじゃ安うしとこわい。」と、魚を渡す。「はいお銭を。」と、受け取り帰ってみると、財布の中は小石と柴の葉っぱであった。
こんどこそ化かされるものかと用心していても、やっぱり化かされたという。
また、切りぬきを南へ行くと、馬淵へ出る。当時の農家は、牛馬を飼育し、博労が牛馬の仲買をしていた。馬淵は深い藪や林が続き、昼間でも追いはぎが出そうなところである。
ある秋の夕暮れに、一人の博労が馬淵へ出向き、時雨にあって、農家の軒下で雨宿りを下。ちょうど前に牛小屋がある。商いになるウシかもしれんと、牛小屋の腰板にある節穴から、目をさらにして、覗きこんだ。「これはええウシじゃ、ええ商いになるぞ。」と、つぶやいていた。「おいはん、あんた、何しよるんで。」と、肩を叩かれた博労、吾に返ってみると、牛小屋と思ったのは、野ぜんち小屋の囲いの中に頭を突っ込んで、ぶつぶつと独り言をいっていた。
(庄内 林金二郎 投稿)
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33.タヌキを火縄銃で撃った話
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この話は明治の初めに本当にあった話です。
現在の西の土居町の鴻上石油店付近に大きなカキの木が二本ありました。その時代は今のような東西の大きな道はありませんでした。ある日、大江から魚を売りに着た男の人が、荷物をかついでカキの木の下の道を北へ行ったり南へ行ったりしているのです。道を通っていた人は、一人、二人と立ち止まり不思議な行動をみておりました。そこへ西の土居の秋山さんという人が通りかかりました。ふとカキの木の上を見るとタヌキが一匹おります。そしてしっぽを北へ振ったり、南へ振ったりして下ります。すると魚売りの男の人はその方向へ、行ったり来たりしているのです。さっそく秋山さんは家に帰って、火縄銃を持って来て、ねらいを定めてドン!!と一発撃ちますと、みごとタヌキに命中して、タヌキは木から落ちました。同時に魚売りの男の人もあおむけにひっくり返りました。
しばらくすると、魚売りの人は正気に戻りました。そしていうことには、「わたしはここまで来ると、急に前方は海になって、渡しの家内や子供が助けてくれといっておるのです。さっそく助けに行こうとしたが、どうしても行けなかったのです。、全く夢のようでした。」といって、助けてくれた秋山さんにお礼をいいました。当時秋山さんは、金子村の真鍋庄屋の鉄砲組の一人で鉄砲の名人でした。でも若くして世を去りました。
このときのタヌキを撃った火縄銃は、現在でも西の土居町の秋山又三郎さん宅に保管されております。
(西の土居町 藤田敏雄 投稿)
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34.小女郎狸の曽孫狸を食べて祟られた話
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明治の初めのお話です。百姓仕事もひまになった冬の初め、西の土居の若い衆がお茶屋谷へ毎日たきぎを採りに行っておりました。ところが木の枝に掛けていたおべんとうがよくなくなるのです。ある日みんなで相談をして、今日はべんとう泥棒をつかまえてやろうと、木の陰にかくれて待っておりますと一匹の狸が出てきました。そしておべんとうを取って逃げようとするところを、引っ捕らえました。「このタヌキめ!!」と、みんなでかわるがわる棒でなぐっていると、とうとう死んでしまいました。すると誰かが「タヌキ汁にして今晩一杯飲もうや。」といいますと、一同は賛成してその晩タヌキ汁をつくりお酒を飲んでドンチャン騒ぎをしました。
ところがそのあとにたいへんなことが起こりました。翌日タヌキ汁を食べた人はみんな病気になり、またその家にも不幸なことがつぎつぎと起き、西の土居中は大騒ぎとなりました。さっそくある所から霊能者を呼んで来ておがんでもらいました。すると霊能者は「我は一宮神社の子女郎狸の曽孫であるぞ、よくも我を殺して食べたな、お前達の家には七代祟ってやるから覚えておれ!!」と大声でいうのです。みんなすっかり驚いて恐ろしくなり、「どんな償いでもするからどうかお許し下さい。」と、あやまりました。そしてお寺の坊さんにお願いしてタヌキの供養を丁重にしました。それからみんな病気もよくなりました。
この話は西の土居町にあったほんとうの話です。
(西の土居町 藤田敏雄 投稿)
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35.田所の阿弥陀堂
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田所は、古くは荘園の御蔵跡であるといわれ、天正(1573〜1591)の頃は、小野氏の田所館があり、天正の陣で兵火に焼かれた円福寺とともに、宇高から新須賀に移され建立された阿弥陀堂がある。御本尊は阿弥陀如来で旧六月十四日御願込め八月十四日御願解の回向が現在まで続いている。昔は、敷地も広く堂宇も、二間半(4.5メートル)に三間半(6.3メートル)あり、目に御利益があると多くの参拝者があった。
ある年の大洪水で、御本尊の阿弥陀様が瀬戸内海を漂流して、対岸の広島の浜辺に打ち上げられた。浜の漁民が拾い家に持ち帰って祀っていた。夜中になると、阿弥陀様の祀ってある方から、小さな声で「返りたい、元の所へ帰りたい。」ト、シクシクと無く声が聞こえるので、漁夫は浜の人々に話した。村人も捨てても置けないので、諸々を探し探していると、田所の人も洪水の始末そこそこ阿弥陀様を探しているのを知って、当所に祀っている御仏体であることがわかり、ぶじにお迎えし現在のところに安置したという。
(田所 三浦福太郎 談)
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36.ぬう山
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明治32年(1899)国領川の堤防が決壊し大洪水となり、田畑、人家を押し流し、死者が出る大災害をうけた。
国領川の堤防をこわした濁流は、別子銅山峰からの土砂も運んで、庄内・田所・新須賀の水田一帯に、「ぬう」今のヘドロに似た細かい砂でおおわれ、水田の耕作ができないので、農民が総出で、このぬうを取り除く作業をしました。ぬうは遠方へ運ぶことができないので、荒地や、水田の片隅などに運び積み上げると山のようになった。この小高くなった所を、人々は「ぬう山」と呼んだ。その大木なのが堀江神社の近所にあった。(いまは小さくなって残っている。)水田の隅のものは、道路や宅地造成に使用されて、今は見当たらない。
ぬうやまは、作物ができないので、クワをつくって養蚕に利用していた。
(新居浜公民館老人たちの話の要約)
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37.常福寺の片手薬師さん
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戦国時代、新居郡でも例にもれずいくども戦が繰り返されていた。天正の陣(1585)では、田や畑を荒らした小早川の軍勢は、寺や神社までもつぎつぎと焼き払った。
庄内の常福寺の和尚さんも、いつもお寺が焼かれるかと気が気でなく、「お寺は焼かれても仕方あるまい、しかし御本尊のお薬師さんだけはなんとしても守りたいものだ。」と、考えた和尚さんは、ある日境内にある畑の中にお薬師さんの像を深く埋めた。その後間もなく常福寺は敵の兵士によって焼き払われた。
長い戦も終わり、村にふたたび平和が戻り、村人達はさっそく畑に埋めたお薬師さんを掘りおこしたが、こともあろうにお薬師さんの片手がポッキリ折れていた。和尚さんは「どうかお許しください。」と、いって小さなお堂を建ててお祀りしたが、お薬師さんの片手のままのお姿が痛ましく、京の仏師に修理に出した。
京の仏師は、仏像の注文や修理のためお薬師さんの修理に手が回らなかった。ある夜、床についた仏師が、どこからともなく「伊予に帰りたい、伊予に帰りたい。」と、声が聞こえてきた。不思議に思いながら、「何か聞こえたような気がしたがー夢でも見たんじゃろう。」と別にきもとめずそのまま寝てしまった。
ところが、ちょうどその頃、常福寺で寝ていた和尚さんの枕もとでも同じような声が「伊予に帰りたい、伊予に帰りたい。」と、繰り返して聞こえてきた。「お薬師さんが、早よう寺に帰りたいといっておられるのじゃ、じっとしておれん。」と、和尚は大急ぎで京へ上がった。
仏師も和尚の話を聞いてたいへん驚き、早速修理することにしたが、和尚は一日も早く連れて帰るといって片手が折れたままのお薬師さんを、常福寺へ持ち帰った。
この話は、たちまち村中に広がり、そんなりっぱなお薬師さんを、あちらからもこちらからもたくさんの人がお参りに来るようになった。人々はこのお薬師さんを片手薬師さんと呼び、手のけがをした人、おできのできた人、手に病をもった人ならどんな人でもお薬師さんにお参りすると、不思議に御利益があるということである。
この薬師堂は、今も庄内東南の田の中に常福庵が増改築して、片手薬師堂となり毎月七日に近所の主婦達が集まり読経・御詠歌・余興を奉ずる祭を続けている。
(船木 河野みどり 投稿)
金子の地名「庄内)
庄内・田所・庄司などの地名は昔の荘園に関係のある地名で、小字として今に残った者と考えられます。
土居の内は、岡崎城主、藤田山城守の里館跡と伝えられていて、城主の収納米や武器を納めた蔵跡が、上蔵内・下蔵内・角蔵等と呼ばれていたところであろうといわれている。
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38.金子城に残る八つの銭瓶
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金子城が落城するときに、小判を八つの瓶に入れて埋めたとの言い伝えがあります。
「朝日夕日受け、梅の古木の下にあり」と言い伝えられております。
昭和の初めに大阪からある人が来て、「実は毎晩のように夢を見ます。鎧を着た武士が出て来て、早く金子城に行き掘ってみよというのだ」とのことでした。何人かの協力者もでき、毎日山のあちこちを掘っていると、一メートルぐらいの卵形の大きな石が出てきました。この下にきっとある、と掘りましたところ、石の下から瓶が出て来ました。さっそく明けてみると、小判ではなく、人の骨が出てきたのでした。
さて八つの銭瓶はどこに埋まっているのでしょうか。
(西の土居 藤田敏雄 投稿)
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39.チヌの池の話
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金子城のあった時代、城の飲料水として使われていた池です。現在の西の土居町自治会館から南の山麓までの間の広い池で清水がコンコンと湧き出ておりました。この池にまつわる言い伝えがいろいろとあります。その昔、天正の陣の戦いでは、金子城の守りは固く、小早川軍がいくら攻めても落ちません。ついに小早川軍から歓降使がやって来ます。そして「あなたたちはこれだけ戦えば、もう武士としても面目は十分に立ったと思います。この上戦えばお互いに死者が増えるばかりです。決して悪いようには致しませんから、ここで城を明け渡してください。」といいます。すると兄に代わって金子城を守っていた金子津島守元春は、「おことばはたいへんありがたいが、私たちは土佐の長曽我部と同盟を結んでいる以上、武士として約束を破ることはできません。最後の一人になるまで戦います。」とキッパリと断り、そして歓降使に、このチヌの池のコイを御馳走して丁重に送り返しました。
また、このとき戦は旧暦の七月で夏の盛りでした。傷ついた多くの武士達は、チヌ池まで水を飲みに来て、力つきて死んで行きました。実は、この池は当時はチヌの池とは呼んでなかったのです。この池のそばで、傷ついた多くの人たちが死に、その血で池の水が真っ赤に染まりました。血で塗られた池、血塗の池と後世に呼ばれるようになったのです。またこの池にはカネ姫の金の櫛が落ちているのだとのいい伝えもあります。
チヌの池は明治の最初までありましたが、鉄道がつくられる時に埋め立てられました。しかし直径五メートルぐらいの源泉池が山麓のタケ藪の中に残っておりましたが、太平洋戦争中の農地の開発でついに無くなりました。
(西の土居町 藤田敏雄 投稿)
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40.御簾が上がるお茶屋の観音堂の話
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私が子供の時、近所のお年寄り、佐野常之亟さんという人がよくこの話をしておりました。この人も西の土居のお茶屋で生まれ育った人です。
明治の初め、観音堂にとっても頭のよい坊さんがおりました。お説教もじょうずなので、お参りに来る人がつぎつぎと増えて来ました。そしてこの観音堂の御本尊様は秘仏で、とても御利益があるという評判が広がりました。又お坊さんのいうのには、「昔から、病は気からといわれているとおり、観音堂へお参りに行って、病気が治った治ったと人の前でいっていると、自然に病気が治るのですよ。」とみんなにいいました。ですから病気の人も治った治ったといいふらしました。したがって観音堂へお参りに行った人はみんな治ったことになったのです。また観音堂ではおおぜい寄り集まって、お経を唱えていると、正面の御本尊様の前の御簾がじわりじわりと上がり、御本尊様の御姿が現れてきます。しばらくすると、また御簾が自然に下がります。当時は大評判となりました。
病気になると、西の土居のお茶屋の観音堂に行き、おがんでいると御簾が上がって御本尊様が現れる。そしてお願いをして、家に帰って病気が治った、と行っておれば病気が必ず治る・・・・ということになり、毎日つぎからつぎへと聞いた人がお参りに来て大繁盛しました。
また、御簾が上がるのは、浪珍という臨時にやとった小僧さんが、床の下でひもをひっぱっていたのだ、と佐野さんが言っておりました。
以上はお茶屋観音堂にまつわる話です。
(西の土居町 藤田敏雄 投稿)
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41.継子淵
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瀬戸の海は、小学校国語読本にあった歌詞のように、「海の静かなる事鏡の如く 島影を行く白帆の影も閑なり・・・・・。」と、おだやかである。
昔、伊予国新居郡の新居の浜辺は、人跡まれな片いなかで、新居浦から西条船屋の間は、山が海にせまり荒波が岩を咬む磯が続いていた。
人々が、潮の引くのを待って淵の岩を心細く一足一足進む難所があった。その一つに、濃緑でそこも見えぬ淵に、継母が継子を突き落とし殺害したといい伝えられる場所があった。いつの頃からか、その淵を「継子淵」と呼ぶようになった。
継子淵は、現在の住友金属鉱山株式会社別子事業所東予工場の南側山際で、県道の通っている付近と思うが、埋め立てられて昔の面影も跡形もない。
(金子 星加康光 投稿)
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