1.道でも三つ
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昔、昔あったつあ、甚作は貧乏じゃきに、嫁のきてもおらんかった。それが島でも一番の分限者の娘が来るというんで、「あのきれいなお嬢さんが。」
「んでもええわいめでたいこっちゃ。」
けんど人のええ甚作はんのこっちゃ、近所となりお手伝いにきて、にぎやかに式がはじまったんじゃ。きれいな花嫁はんと、かしこまった甚作はんを上座において、三三九度の盃がはじまった。お仲人はんが、花嫁はんの盃に酒をつごうとしたら、花嫁はんがお尻をもじもじはじめた。そうするときれいでかわいらしい花嫁はんのお尻の下から「ピー。」と音がでました。仲人はどがいして、
「へーつく、ありつく、おめでとうございます。」
どうやらその場をつくろって冷汗いっぱい。お客はんもほっとしたら、花嫁はんは、これはめでたいこっちゃと思ったのか、
「道でも三つ。」
というたんで、仲人はんもお客はんも、うつむいて口をしかめ顎を引いて上目で、花嫁はんをもじもじ見ました。ところがこんどは、花嫁はんの尻の下から、
「ブー。」
と大けな音がしたんじゃ。今までこらえんのに一生懸命だったお客はんたちは、大笑いしたんじゃ。お客はんの中のひょうきんものは、
「ピーブーブー三つかさねておめでとうございます。」
そいから宴は、にぎやかに朝近くまで続いた。あくる日から二人は仲よく島で働いた。
「ピー。」
甚作はんは、花嫁はんの顔を見てくすっと笑う。
「ブー。」
今度は花嫁はんが、甚作はんの顔を上目で見てかわいらしくにらんだ。
ほして二人は仲よう働いて幸福にくらしたそうな。
「ピー。」「ブー。」
(大島公民館役員 投稿)
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2.大判小判かめ三つ
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一人息子が、のたくれ、のうそで、家も畠も売りとばして小さな家とその周りの少しの林と畠が残るだけとなり、お父さんは重い病気になり、もう今日明日の命となりました。
息子をかたわらへ呼んで、「先祖が繁華な時大判を入れたかめを三つどこかに埋めたと言い伝えが昔からあったが、昔からそんなものを探さなくてもよいのでつい忘れてしもうとったが、お前探してみい、人には決していってはならんぞ、大がめが三つぞよ。」といって死んでしまいました。息子は、一生遊んでもぜいたくざんまい食べられるとその大がめを探し始めました。大判と小判がかめ三つ、ドッコイ、ドッコイ、ドッコイショ、残った畠を一生懸命ほりかえした。村の人たちは、
「こら兵六何か埋まっているんか。」
と不思議そうに言います。こら大変じゃ、人に知られたら困ると、
「いえ食えんけん、麦や、大根を作るんじゃ、食えんきにのう。」
兵六は大きな声で「大判・小判がかめ三つ、かめはかめでも大がめじゃ。」と掘り、その後へ、麦や大根の種をまきました。よく掘っとるんで、麦や大根その他のものもよくできました。
一生懸命働くのでしだいに金もできたので売った田畠も買い戻し、「やれ大判小判がかめ三つ。」深く掘り返し、またも次々と田畠を買い戻し、附近の林も掘り返して畠にしました。安気になったので嫁ももらいました。子供もできました。兵六は誰にもいわず毎日毎日「大判小判がかめ三つ、かめはかめでも大がめじゃ。」と、口の中でつぶやきながら毎日毎日畠を掘り、その後に作物を作ったのでますます金持ちになり、大きな家も建てました。大きな倉庫を三軒も建てました。子供も大きくなりましたが、兵六は相変わらず田畠を掘っていました。
いつのまにか、兵六は、
「大判・小判が、かめ三つ、かめはかめでも大がめじゃ。」
といわなくなりました。
(大島公民館役員 投稿)
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3.小話
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アイとタイが岩場のことで喧嘩を始めました。タイは大きな目をむいて鋭い歯をむいて今にも飛びつきそうです。アイは背中の毒針をたてて、小さな口から白い歯をむきだして今にも飛びつきそうです。そこへ、コチがきていろいろなだめましたが聞きません。こちは怒って、「アイ・タイ(相対)けんかこちゃ知らん。」といって、腹を立てて行ってしまいました。
誰も仲裁をしてくれるものがないのでけんかをやめて、同じ岩場へ入って行きました。
(大島公民館役員 投稿)
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4.小話
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仏さんのおる極楽にゃ、赤と白のハスの華がいっぱい咲いとる。池の端で阿弥陀はんの頭をお釈迦はんがそったげとんじゃ。カミソリが動くたびに阿弥陀はんの顔は、目も鼻も口も、ひとところに集まったり、また、ひろがったり、くしゃくしゃになるんじゃ。たいがい、カミソリが切れんらしい。たまらんようになったんだろう、阿弥陀はんは、
「あみだ(涙)がでるがな。」
というたら、お釈迦はんは、
「しゃか(釈迦)ぞりじゃ、こらいとんな。」
といったそうな。
(大島公民館役員 投稿)
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5.ゆうれいの片そで
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新居浜市の大島に、喜衛門という漁師がいた。妻はお菊といって、やさしい女であった。二人の間にはお雪というかわいい一人娘があり、家族三人は幸せにくらしていた。
ところが、お雪が五つの時、喜衛門に好きな女の人ができた。喜衛門が、その女を新しく妻にしようとしたため、今まで幸せだったかぞくは、たちまち不幸になってしまった。お菊は驚き悲しんで、喜衛門に何度も思い直してくれるように頼んだが、すっかり心変わりをした喜衛門には通じなかった。お菊は、とうとういとしいお菊を残したまま里へ帰ってしまった。
喜衛門の妻になった女は心の冷たい、ひどい女であった。まま母は、お雪に何かとつらくあたり、食事もじゅうぶんにあたえなかった。そのうえ、自分の仕事まで小さいお雪にさせて、お雪がよくできなかったり、失敗したりすると、ひどくぶっていじめた。喜衛門も女のいいなりになって、お雪をしかるようになっていた。まま母にいじめられるのはがまんできても、父親にかばってもらえないのが、お雪にとって何よりつらいことであった。だから、しかられるたびに母親のお菊のもとへ行っては、泣き泣きつらさを訴えていた。お菊は、わが子の話を聞きながら、自分がいじめられ、傷つけられてでもいるように心を痛め、お雪といっしょになげき悲しんだ。
こんな事がたび重なるにつれて、お菊は、お雪のことを心配するあまり、とうとう気が狂ってしまい、喜衛門と女をたいそううらみながら死んでしまった。
まま母は、悲しみにうちしおれているお雪をいじめ続けた。
「かあちゃんは、なんでわたしを残して死んでしまったのだろう。かあちゃんに会いたい。死んでかあちゃんの所へ行きたい。」
ある晩、お雪は、母の墓で歩いて行って、そこで思いっきり、泣き明かした。これがいつしか習慣のようになって、お雪は月夜でも闇夜でも、毎晩こわさを忘れて母の墓へ通うようになった。そして、生きている人にものをいうように、母のお墓に泣きながら悲しみを訴えるのだった。
そんなある夜のことである。その夜も、お雪が、まま母にひどくぶたれ、母のお墓の前で泣いていると、ふと目の前が、ぼっと青白く明るくなった。墓のうしろから、あのなつかしい母親が現れたのである。お雪は息がつまるほどおどろいたが、思わずこの世の人でない母の胸にとびついて行った。お菊も、わが子をしっかりとだきしめた。
「ああ、かわいそうなお雪。かあちゃんは、おまえがいつかは、いじめ殺されてしまうのではないかと思うと、心配で成仏できないんだよ。」
お菊はそういってお雪をいとおしそうにいっそう強くだきしめた。
「だから、少しでも早く、この寺の尼さんになり、仏様のお力におすがりして、かあちゃんが安心して仏様になれるようにとむらっておくれ。そして、おまえのようなかわいそうな子供を救っておあげ。それから、もう今夜かぎり、お墓へ泣きにくるのはおよしなさい。その代わり、かたみとしてこの着物の片そでをあげるから、かあちゃんと思ってたいせつにしておくれ。」
二人はしばらくかたくだき合ったまま、別れをおしんだ。ゆうれいのお菊は自分の着物の片そでをぴりぴりと引きちぎってお雪にわたすと、かき消すように消えてしまった。
しばらくの間ぼんやりしていたお雪は、はっとわれにかえると、母にいわれたとおり尼になるため、すぐにその足で寺にかけこんだ。尼になったお雪は、いっしんに仏に仕え、母の霊をなぐさめた。そしてまた、不幸な子どもたちの世話をよくし、困っている人たちを助けた。やがて、お雪は、島の人たちから仏様のようにうやまわれながら七三歳でなくなった。お雪が母からもらったかたみの片そでは、今も大島の願行寺に「ゆうれいの片そで」と呼ばれて、たいせつに残されている。
愛媛のむかし話(坂上頼正の文)
大島の地名
大島の地名のいわれははっきりしない。古い時代黒島といっしょにして政府(藩庁)が治めたことがあった。嘉元四年(1306)後宇多院の御領目録に庁分として「伊予国新居大島」とある。鎌倉時代の初め頃から八条院の御領となっていた。
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6.石鎚島之助(大島島之助)
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昔、新居浜市の東部開城の大島の漁師の家に、一人の男の子が生まれた。その赤ちゃんは非常に大きな赤ちゃんでした。お家の人たちはこの男の子が生まれたことをたいへん喜んで、
「島で一番大きく強くなるように。」と願って「島之助」という名をつけました。
島之助は、すくすくと育って、八歳になった頃には、普通の大人よりも大きいくらいになり、しかもたいへんな力持ちになりました。一五歳になった時には身長は二メートル三〇センチくらいになり体重は一三〇キログラムにも達する大男になりました。その頃島之助はお家の手助けをして、海へ漁に出ていましたが舟を出すときも、舟を陸へ上げるときも、一人で軽々とし、力のいる帆柱を一人で起こして立てたり、倒したりしていました。その上重い碇を(約400キログラムもある)一人で投げこんだり、引きあげたりして島中の人たちをおどろかしていました。そのうちにも、身体が年と共にますます大きくなって、大人になった時身長は二メートル五〇を遙かに越し体重も一八〇キログラムに達し、それはそれはみごとな身体になりました。島の人たちは島之助を見てはことごとに、「その身体で漁師などするのはおしい、お角力さんになったらよいのに。」とすすめました。そのすすめに心が動いて島之助は「石鎚島之助」と四股名を名のり角力取りになりました。身体は大きいし力もあるので誰と組んでも負け知らずでだんだん出世しました。
その頃力士として有名だった「兜山権太右衛門」と角力を取り、権太右衛門を投げ殺してしまいました。それで一層有名になり、島之助は力では日本一だといわれるようになりました。
そのことが紀州の殿さまの耳に入り、ぜひにという所望で、紀州公お抱えの力士になりました。がふちしたことで紀州の殿さまのご機嫌を損ね、おひまをもらって島に帰りました。
島に帰った島之助は島の若者に角力を教え、かたわら百姓をしてのんびりくらしました。
ある時、黒島のすぐ南にきれいな小さな島が二つあるがあの島は少し西にあったらなおよいのにという人があった。それを耳にした島之助は、二つの島を天秤棒でかついで西の方へあるき出したが、あまり重いのでひと休みした。ひと休みする間に島に根が生えて動かなくなってしまった。子の二つの島は今の「大久貢と小久貢」になった、と。
久貢やまには大ネコがいて浜子のべんとうをよく盗ったといいます。
(大島の古老の話と垣生の昔を語る会で出た話の要約)
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7.御前さまと漁師
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元禄十三年(1700)多喜浜塩田の築造が開始される頃まで、多喜浜は遠浅の海で、現在の楠崎興玉神社の石段の麓を東西に走っている旧阿島街道のあたりまで、小波が静かに打ち寄せて、それはまことに美しい眺めでした。そうして、松並木の数本茂る楠崎の磯辺に古くから海津見神と豊玉姫をお祀り申し上げた小さな祠がありました。
里人達は、この祠を御前さまと呼んで漁業の神さま、お乳の神さま、子供の神さままた、いぼとりの神さまとして信仰していました。多喜浜の浜辺に住んでいた一人の漁師が年の瀬も押し迫ったが、毎日毎日風のため不漁続きで困り果てた末、或夜のこと、御前さまにお参りして、
「長い間不漁続きだ困っています。どうか明日からは漁がありますようにしてください。」とお祈りいたしました。そうして翌朝早く御前さまにお参りして祠の前の磯辺をみると、不思議にもそこに数十匹のタイが泳いでいるではありませんか。驚いた漁師は、これは神さまからのお授けに相違ない。ありがたいことだ。と、神さまにいくどもいくどもお礼をいいながらそのタイを獲って村に売りに行き、家に帰りました。そうして、そのことが翌日から毎朝のように続き、漁師はいつしか大金持になり、世の中の人々のためめにも尽くしたそうです。
又、御前さまには、子供のいない夫婦がお百度参りをして子供が授かったという話しも多く伝えられています。
また「いぼ」のできた人がお参りして、そこの苔をつけて、一日するときれいに「いぼ」がとれていたと今も喜んでいる人がたくさんいます。
また、御前さまの境内には乳石といって乳の出ない人がその石のかけらをお米と一緒に炊いて、その粥を飲むと乳がよく出るといわれ、その乳石も今では十分の一の大きさになって鎮っておられます。
(多喜浜 湊神社宮司 近藤和稔 投稿)
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8.浜の宮のタヌキ
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船乗り(船員)の久助さんが乗った船は予定より早く、古い新居浜の湊に着いたものの歩いて黒島に帰った時は真夜中を過ぎていました。
多喜浜の新田から塩田の中に一本の細い道があって、塩田で働く人のためにつくられたものだが、黒島への近道でもあった。
暗くても通いなれた道を足早に歩いて、端の手前の土手にさしかかった時、
「カリ、カリッ、カリカリ。」
という物音に足を止めて、音のする方をすかして見ると、東側の草が生い茂っている所に黒い影が忙しそうに働いている。人間に見られていることを知らないタヌキは自分の食べたカニの甲羅を足にはき、カズラの葉っぱを頭に載せ、ススキの穂をくるくると体に巻きつけて、小さな板ぎれをひょいと、つかんだと思ったら、なんと、きれいに髪を結って縞模様の着物を着て、草履をはき包みをもった娘の姿に変わった。
タヌキの化ける姿を目のあたりに見た久助は、
「オッホン。」
とわざと大きい咳ばらいをしながら、橋を渡ってしばらく行くと、
「おいさん、おいさん。」
若い女の声がする。ふり向くと、さきほど土手でみたタヌキが化けた娘である。うまいこと化けよって・・・・感心しながら久助さんは平生をよそおって、
「わしのことかな、こんな遅うに、あんたどこの娘はんぞな。」
「わたしゃ、黒島の久助の娘で、お千代といいます。二年前から上方へ方向に出とりまして長い旅には疲れました。すみませんが連れになって、ちょっと休んでおくれませ。」
久助さんはおどろいた。自分にもお千代という娘はいるがまだ子供である。
「人間がタヌキに化かされるということは、人間がタヌキにばかにされとるからじゃ。ひとつタヌキを驚かしてやりたいもんじゃが。」と思いながら、久助さんは道ばたの石の上に腰をおろして腕を組み、目をつぶって考えていた。ところがつい眠くなってとろとろ・・・と眠ってしまった。
笛や鐘の音にまじっておおぜいの人の声に目を覚ますと、そこは見たこともないにぎやかな町で、道行く人も知らない人ばかりである。
「タヌキの奴、わしを化かしにかかったなあ、ようし。」と立ちあがったけれど、急によい考えも浮かんでこないまま、腰にさげていた煙草入れの中から取り出した煙管に煙草を詰めて火をつけた。
「ああうまい。」
思わず声を出して振り向くと、にぎやかな街も、娘の姿もなく、そこは浜の宮の入口だった。
「浜の宮のタヌキどん、わしは黒島の本物の久助じゃけんなあー。」
大きい声で叫んで胸をなでおろしながら家へ帰った。
「人間を化かすタヌキも、火を恐ろしがるらしいぞな。」
久助さんの話は村中に広がった。
祖母から聞いた話です。文中にある橋は後の相生橋で、祖母のいう昔、タヌキが出てた頃は橋の代わりに「アユミ」がかかっていたそうです。船のり、あじがる、その他の方言は当時聞いた通りのことばです。
(新居浜市阿島 伊藤孝江さん 投稿)
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9.権現さんのタヌキ
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黒島神社の西側に、権現山という小さな山があります。権現山の東側はしめっぽい所で、小さな社と小さな池があった。この付近は、タヌキが出るというて夜は誰も通らなかった。
どうしても通らないかん時は提灯をつけて通ったそうな。ある晩西裏の人が提灯をつけずに通っていたら、
「ドーン。」
と大きな音がして、何が何やらわからなくなって逃げて来たそうな。あれはタヌキに化かされたのだと言って、それから夜は誰も権現山の近くは通らなくなったそうな。
註・ごんげんさん
ごんげんやまにあった権現堂のことと思う。山は工業団地造成の土取りで取り除いて今はなく民家になっている。子供の頃は芋畑ばっかりでさみしく、わたしも夜通ったことがない。この話は古老に聞けばいろいろ変化があると思う。
(新居浜市阿島 近藤史孝 投稿)
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10.阿島の蛇淵
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「蛇淵」は又の名を「おげん淵」ともいわれ、多喜浜の阿島安養寺の北方約300メートルの阿島川の右岸、川淵にあったといわれています。
昔、奥山に「おげん」という女がいました。家は貧乏で、娘に着せる正月の晴着が買ってやれないため、糸を紡いでは織り、布をつくり、朝夕懸命に努めたが、ついに晴着は間に合わず、娘は嘆き歎き悲しんだ。待ちに待った正月も貧乏の悲しさに見るも哀れであった。
「おげん」はわが娘の悲しむのを見るに見かねて愁嘆し、あげくの果てに山越え谷越えていつしか「蛇淵」に来て身を投じ、哀れな一生を終えたという。それからこの淵を「おげん淵」というようになった。
(多喜浜新田 日野鉄夫氏 投稿)
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11.蛇淵について
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多喜浜で一番長い川である阿島川には淵が四ヵ所あります。扉の基淵(上の名)正方淵(中の名)落合淵(平木)蛇淵(本郷)がそれであります。その中の蛇淵についてお話を申し上げますと、蛇淵は池王神社(阿島にある)の正面に位置する所にあり、長さ150メートル高さ20メートルもある大きな淵です。昔この淵に多年阿島の山護摩の谷に棲んでいる大蛇が、子の淵に水を飲みに来ては人々に危害を加えて困っていました。
たまたま少年空海が伊予巡歴の途中この阿島の地を訪れ、現在の安養寺の地に滞在中、ある夜池王神社の神が空海の枕元に現れ、多年阿島の山の谷に棲んで人々を害している大蛇を退治すべしと告げられました。
空海は護摩法を奉修せられついに悪竜大蛇を降伏退治せしめたと言われます。その時奇しくも霊水が湧出したのでこれを如地水としたと伝えられ、空海の聖蹟に創建したのが安養寺であります。
(阿島 加藤寿氏 投稿)
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12.タヌキの祟り
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今から70年余り昔の事です。三喜浜塩田の煙突横の穴に親タヌキが一匹棲んでいました。ふだんはたいへんおとなしいたぬきですが、ときおり人を化かすことがありました。
塩田で働く人たちはそのことをよく知っていました。ある日、体の調子のよくないタヌキが煙突の付近で遊んでいると、五、六人の「浜子」に見つかり、とうとう捕まりました。(浜子とは塩田で働く人のことです。)浜子たちは、捕まえたタヌキをどうするかを相談した結果、タヌキ汁に使用と話が決まり、その日の夕方料理して五人の浜子たちが、
「うまい、うまい」
といって食べてしまいました。それから幾日かたったある日、一人の浜子が頭が痛いと行って翌日死んだ。その翌日も腹が痛いといって一人が死に、とうとうタヌキを食った四人までが死んだ。残った一人は心配でたまりません。これはタヌキを殺して食った罰があたったのだろうと思い、タヌキの霊を慰めるために、お宮をつくってタヌキをお祭りしました。その人はその後、長生きしました。当時はタヌキの祟りがあったものと思い、この地方ではタヌキを殺さなくなったと言います。
(多喜浜新田 日野鉄夫氏 投稿)
多喜浜の地名
多喜浜は元禄以前は黒島村・阿島村と呼んでいた。多喜浜の地名の由来に二説ある(新居浜市史にくわしくでているので略す)。
阿島 弘法大師にまつわる伝説が多い。今宇摩郡土居町に通ずる道が整備され交通の盛んなところとなっている。
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13.高せんぼうの話
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人家もまばらで、街灯などなかった時代、深夜の道を行くのは、沖に風が出て漁ができなくなり、陸にあがって家路を急ぐ漁師か船乗りぐらいのものだった。
ある夜、例のごとく急に風が吹いて、漁ができなくなった若い漁師が、一人でわが家をめざして足早にあるいていると、電柱の向こうに黒い影が動くのが見えた。立ち止まってその影を眺めていると、みるみるうちに身の丈が伸びて、家よりも電柱よりも、近くの山よりも高くなっていき、あまりの恐ろしさに若い漁師は気を失ってしまった。
二、三日たって、漁師からこの話を聞いた老人たちは、
「それは高せんぼーじゃ、昼間はどこにおるんかわからんけんど、夜になったらからんころんと音を立ててきたり、ものかげから音もなく出てきては、一人で歩いている人をおどかしょんじゃ。夜道で見たこともない人に会うたら、相手の顔や姿をみないように下を向いて歩くことじゃな。」
うわさは半日もしないうちに黒島中に広がった。
暑く眠れない夏の夜更け、源さんはうちわ片手に浜へ涼みに来た。宵のうちなら、浜の縁台にはおおぜいの人が座っているのに、その夜は誰もいない。縁台の上にごろりと横になると昼間の疲れが出て、ついウトウトしていたが、耳の奥の方で「からんころん、からんころん。」と高下駄をはいて歩いてくるような音に目がさめた。上体を起こしたまま、そっとあたりを見ると、自分の寝ていた足もとになんと、男がうしろ向きにたっている。
「高せんぼう」だと気がついた源さんは、あわてて目をつぶったまま男に声をかけた。「兄はん、あんたどこから来たんぞな、黒島には夜になると、高せんぼうというお化けが出て、背を高こう伸ばして人をびっくりさせよんじゃが、とろくさい、こんもうにはようならんちゅうけんな(小さくはなれないということだ)。」
源さんのことばが終わったとたん、ひゅるひゅるとおかしな音がして、源さんの頭のあたりを、生ぬるい風が、さあっと吹いて行った。
薄目をあけて見ると、高せんぼうは、五、六歳ぐらいの子供ほどにちいさくなっている。
「体もよう冷えて来た。そろそろ寝るとするか。」
と一人言のようにいいながら、もう一度うす目を開けてみた。高せんぼうが、大人のにぎりこぶしぐらいになった時、
「人間はお化けより強いんじゃ、ばかな石ころめ。」
急いではいた下駄の先で、思いっきり海に蹴った。
「チャポン。」
高せんぼうはその夜から出なくなったそうな。けれども、真っ黒のお化けというだけで、高せんぼうの顔をハッキリ見た人は一人もいなかったという。
(多喜浜 阿島 伊藤孝江氏 投稿)
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14.里の祖母がきかせてくれた話
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黒島に生まれ育った五〇歳以上の人なら、高せんぼうの話は知っていると思います。晴天の日にハマのついた下駄(雨降りにはく高下駄)をはいていると、
「高せんぼうが来る。」
といわれた思い出もあります。
新居浜には、古くからタヌキが多くいたようですが、今は産業道路に面している湊神社が以前塩田の中間どころにありました。浜の宮と呼ばれていました。その浜の宮のクスのほら穴にタヌキが棲んでいて、よく人を化かしていたお話も聞いたことがあります。
太平洋戦争のさなか、毎夜、泊まりに行く家でいろいろな昔話をききました。
(多喜浜 阿島 伊藤孝江氏 投稿)
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15.黒島神社のタヌキ
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黒島神社は黒島山の中腹にある。長い石段を上がると、垣生山が西に見える。鎮守の森の緑が潮風にそよぐいいどころだ。
昔、この鎮守の森にタヌキの一家が棲んでいたそうな。何でも一宮神社の子女郎狸の親戚だそうで、夫婦ダヌキと七匹の子ダヌキがいたそうな。
ここのお父ダヌキは神主さんによくなつき、年よりの神主さんといっしょにたき木を取りに行ったり、近所へ使いに行ったり、いろいろよく手伝いをしたそうな。
ある冬の寒い晩おそく、お宮の石段の方でイヌのほえる声がやかましく聞こえるので、神主さんはどうしたんだろうと思っていると、とんとんと戸をたたく音がして、
「神主さん、助けてください。子ダヌキがイヌに食われそうです。」
と父ダヌキの声が聞こえてきた。神主さんは年寄りで足が弱いし、夜おそく寒いので聞こえないふりをしていたそうな。
あくる朝急いで行ってみると、七匹の子ダヌキは、みんなイヌに食われて死んでいたそうな。神主さんは、
「おおかわいそうにすまんかったなあ」
といってねんごろにとむらってやったそうな。だが父ダヌキは神主さんをうらんで、
「神主さんの家には七代跡取りが生まれんように。」
といったそうな。
それから神主さんの家には男の子が生まれず、娘ばかりで養子が続いたそうな。
註、黒島神社(現在黒島神宮)のタヌキの話しです。子供の頃、祖母にせがんでそのタヌキの穴のあったところを見に行った思い出があります。お父ダヌキの言葉の先に「神主さんが薄情な」ががついているともいいます。
(新居浜市黒島 近藤史孝氏 投稿)
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16.明正寺境内の薬師堂
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薬師堂には薬師如来・毘沙門天・弘法大師が祀られている。お薬師様の御本体は掛軸に描かれた画像です。長い間掛けていたので痛みが生じ京都の表具屋へ修理に出しました。
それから一年後に修理が終わったから引き取りにくるよう便りがあった。修理に持って行った角屋伍平は、さっそく京都にお迎えに行きました。ところが表具屋さんの床の間に同じもの寸分違わぬ二本の掛け軸が掛けてあり、
「とちらでも持って帰りなさい。」
といわれて困ってしまいました。どちらが持って行った本物かわからないので、お薬師さんを念じつつ目をつむり御利益があるなら、私に目に物見せてくださいと拝みました。目をあけてよく見ると画像が目をパチパチとしばたたいたのでこれが本物だと思い持ち帰った。
それからというものは誰となく、目引き薬師様というようになり、目の病気に御利益があるといわれ、現在も多くの人がお参りしている。
(多喜浜 新田 日野鉄夫氏 投稿)
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17.乙女狸
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わしの子供の頃、秋の夜長のつれづれに、おじいさんが、いろいろ昔話を聞かせてくれたものよ。おもしろい話や、恐ろしい話しもあったりで、時のたつのを忘れて聞いたものだ。
今日はそんな昔話を一つ話すことにしよう。
田ノ上という在所の新屋敷に大きなクス軒があって、そこに乙女狸とも、クスの木狸ともいわれた小ダヌキが棲んでおったと。またその頃、一宮さんにも小女郎狸と呼ばれる小ダヌキがおってそちらもべっぴん(美人)さんに化けるというので、評判が高かったと。またこの二匹は姉妹ダヌキだという人もおったりして、どっちが器量よしだろうとうわさが広まったりしたこともあったが、まあいずれかがアヤメかカキツバタかわからんほどのねっぴんさんだったらしい。どっちが姉で、どっちが妹かはとうとうわからずじまいだったらしい。
ある満月の夜だったそうな。松神子に住んでおった郵便屋さんが、宇高へ電報を届ける途中、新屋敷の大クスのわきをとおりかかったところ、うしろから、
「もし、もし。」
と呼ぶ声がしたのでふり帰ると、煌々とした月光に照らされて、目のさめるような、それはきれいな弁財天さんが立っておじゃるではないか。思わず息をのんだほどでその様子はなんにたとえたものか。そう「雨に濡れたシュカイドウの花」とでも。すると弁財天さんが、
「宇高の姉さんをたづねて行きよって夜道にはぐれてしもうて・・・・・。」
と語尾もはっきり聞きとれないような細かい声で話しかけられ、
「わしもちょうどそっちの方へ行くところじゃでいっしょしよう。」
と二人連れだって行ったと。
なんでも夜っぴいて歩いているうちに、とうとう東の空が白んできたと。そこへ通りかかった浜の漁師に、
「郵便屋さん。こんな夜明け早々どこへ行きよると。」
と声をかけられ、郵便屋さんはちょっとの間、キョロ、キョロあたりを見まわしておったが、だんだん自分をとりもどしたらしく、
「はて、妙なことよのう。」
自分のおる所はどうやら沢津の海岸らしいと気づいたとき、
「さては、めダヌキにたぶらかされて、電報も届けず、一晩中、この砂浜をあっちこっちほっつきまわっておったのか。」とおもうと、むしょうに腹がたつやらくやしさがこみあげてくるやらだったと。
それから日をおいて、やはり満月の夜だったそうな。ゆうびんやさんは、公用で夜道をスタスタと急ぎ足で、新屋敷にさしかかったところ、
「もし、もし。」
と背後から呼ぶ声がするので、案の定「さてはめダヌキめ出よったな」とおもいつつふり向きざまにかくし持った小刀をふりかざし、
「このめダヌキめよくもたぼらかしおったなー。」
と切りつけたが、何の手ごたえもなく、いちもくさんに大クスにかけ登って姿をかき消したそうな。それからというもの一度も姿を見せんかったと。おしまい。
(神郷 話者 酒井助市 再話者 土利静正)
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18.火祭行事
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土用とは立秋の前十八日間をいう。一年中で一番暑い日照りが続き、二〇日以上も雨が降らないと、道端の雑草が黄色く枯れたり、畑作もしおれる。田圃の水も涸れて、ひび割れるようになる。この時季はいわゆる「穂ごしらえ」といって稲作にとってたいせつな時季である。明治・大正時代には、郷や宇高地区は土地の地力がなく、水不足で、農家はもちろん一般家庭の飲料水にもかくことがよくあった。そんなことから「郷や宇高の日焼け茄子 熱い芋食って歯部(垣生)焼けた」という諺があったぐらい。水不足に悩まされ苦しんだものである。
古井戸を浚って水を汲んだり、畑の角に井戸を掘ったりしたが、地下水にあたらない。
深さ十メートル以上も掘り下げるという苦労をしたものである。水を掘りあてていざ水が出かけても、汲み揚げにも天秤棒で二、三人がかりで、三、四時間かかって一アールやっとでした。次の人とバトンタッチして日夜交替で汲み揚げ、筆舌につくせない苦労をしていた。日照りは天災だといって神仏に祈願しる以外に方法はなしということで火祭御意時をしたものである。
(神郷 郷東 酒井助市氏 投稿)
神郷の地名(一)
田ノ上 神郷の三つの大集落(郷・松神子・田ノ上)の一つ田ノ上神社・西正寺・大師堂などがある。多喜浜駅の西北一キロの所にある。
松神子 多喜浜駅のすぐ北のいったい、粉の集落に大足智姫神社・明教寺がある。大足とも姫神社のクスの木の守・明教寺のおおイチョウは目じるしになる。
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19.鉾前神社の由来
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祭神は素戔鳴尊・大市姫命を合祀、相殿は伊佐那岐尊・伊北那美尊・菊理姫の三柱を祀っている。当社は貞観年間(859−876)の建立といわれている。旧号祇園牛頭天皇と称したのを命じ初年、仏寺取除の際、祇園牛頭は仏法語なるを以て岡崎と改称したといわれている。代々の国司の崇敬篤く、旧西条藩主松平家においても領内を廻謁せらるる時は必ず参拝せられた。
明治四一年(1908)九月十五日村社白山神社合祀して鉾崎神社を改称され今日に至っている。
(神郷 上郷老人大学生 投稿)
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20.田上神社の由来
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田上神社の源は、農業開発と五穀豊穣の神として、大年の神倉稲魂神・大山祗天神・鹿屋野姫の命・五十猛命・予母津解男命の神々を併祭され、農家と田畑の守り神として里人から信仰を受け、田神宮と呼ばれていました。創立はたいへん古く神亀五年九月二三日(728 奈良時代)といい今から1260余年も前紀伊の田熊野の神々勧請し、田神社と称し権現新宮とも山神宮とも唱えられ、弘安四年(1281 鎌倉時代)国守河野対馬守の神田加増の墨印を附してあります。これは河野通有が元冦の役で活躍した功によるといわれている。
その後、天正時代(安土桃山時代)宇高不留城主として川東全域を領有していた高橋三河守光頼によって、越智郡奈良原権現を田ノ上に分祀されたことから奈良原権現と呼ばれ、室町・江戸時代には白山権現(中萩)石鎚権現とともに三大権現として遠近の人々も福寿の神として尊敬されてきました。
しかし、天正十三年(1585)八月小早川隆景の四国征伐でことごとく落城廃毀され以後神領社式等廃没し田上と変え今日に至っております。明治四年(1871)には氏子230戸、現在では700戸余となっており、現在の本殿・拝殿は昭和12年(1937)三月再建されたものです。
(神郷 田ノ上西 岡田裕一氏 投稿)
神郷の地名(二)
又野 多喜浜駅のすぐ近く、又鉄道を挟んで南にある集落・阿弥陀堂(三義民の一人村上兵衛門の墓所)がある。
楠崎 神郷のもっとも東にある。阿島街道の南側一帯、興玉神社や御前さんがあり、また地蔵堂もある。
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21.なぜ泣くのお地蔵さん
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昔々、どこからか神さまが落ちて来たそうだ。そこで地名を落神と付けたらしい。そこは小高い丘で谷間になっていたので荒神谷といって荒神様を祭って今に落神地区の祭神として礼拝している。
すぐそばの頂上に、加地家先祖の墓地があって、下側に加地家四軒の墓地になっている。加地家先祖の八郎ェ門という人は天和年間(1680)今より約300年ほど前、志して落神の谷間の一角に溜池をつくった。子孫三代私費で完成したので、八郎ェ門池と呼び農家の灌漑用として現在も使用している。その加地家の墓地内に二基のお地蔵さんの墓がある。全部が南の方に向いている。どんなことかお地蔵さんだけが西に向いていて拝んでも通行しても都合よくないので同じ方向に向けて祭っていたそうです。
ある夜、通りかかった人が「シクシク」とすすり泣く声がするので、不思議に思い近寄って見ると、それはお地蔵さんでした。次の晩も泣いていた。毎夜そんあことが続いたので、話題になって、みなが恐ろしくなり、元の西向きに祭った。すると不思議に静かにおさまったそうで、今にそのままでお参りしている。
さわらぬ神にたたりなし、どんなおかげがあるんだろうかと思っている。苔むしているので相当古いかわいらしいお地蔵さんである。
大昔お釈迦様は入寂(死去)の時お地蔵さんを呼んで、
「我れ今寿命は尽きた、死す、人間の悪を救い切れなかった。地蔵よ我に代わって此の世を救って呉れよ」
といい残されたほど古いお地蔵さんの歴史がある。
川端や、池や、道路や、寺院などいたる所に地蔵さんが祭られているが、何百程のお顔がつくられている。かわいらしい赤ユダレ掛けをしているが同じものは一つもない。
神霊・仏霊・人霊がたたる罰があると伝えられてまよっている。
お地蔵さんのお気持ちお心はどんなであろうかと特別な祈祷師を招いてお地蔵さんのお心を伺ってみたらどうかと話題になっている。
(神郷 郷西 酒井ショウ 投稿)
神郷の地名(四)
旧松神子には
寺の西・寺の北(今の田ノ上三丁目)オカメ藪(田ノ上三丁目)。
孫兵衛新田(松神子四丁目)などの地名が残っている。
江ノ口(今の松神子四丁目)バス停がある。
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22.しらあえの話
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田舎料理(垣生あたり)の一つとして喜ばれるものに「しらあえ」というのがある。コンニャクを細かく切り、ゆがいてそれに豆腐をくだいて入れ、調味料を加えてつくった料理で、その起こりについて、垣生の年寄りから次のような話をきいた。
昔のことであった。明教寺(松神子にある)の裏門で、コンニャクと豆腐が自慢話を始めた。
「何といっても人間の役に立ってすかれているのはコンニャクだ。」
と言うと、豆腐は負けずに、
「それは違う。人間に好かれるのは色の白いきめの細かい豆腐だよ。
と負けずにいい返し、お互いに譲る気配がない。とうとう大声で口げんかを始めた。あまり声が大きいので、明教寺の和尚さんが駆けつけ仲に入って、コンニャクも豆腐も細かくくだいてお互いもつれ合う「しらあえ」になれといったのでそのようにしたとか。
(垣生の昔を語る会で話されたもの)
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23.明教寺の目薬の話
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明教寺(松神子にある)に、昔、堂守さん(お寺の住職の奥さん)だけに代々伝えられていた話。
眼に星ができた時につけると特効のある眼薬の製法があった。これは堂守さんだけにしか教えてはいけないといわれ代々の堂守さんが守って来た。
そのお薬はクチナシからつくるものらしく明教寺にはクチナシの木がたくさん植えてあった。(昭和の本堂再建で除いてしまった。)
堂守から堂守への秘伝であったので、昭和になって、堂守が早くなくなり、伝える堂守がいなかったため、秘伝が絶えてしまったとか。
(垣生の昔を語る会で出た話)
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24.明教寺の鬼坊主
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神郷の松神子にある明教寺にとっても力持ちのお坊さんがいた。ずばぬけて力が強かったので、伊予の鬼坊主ともいわれたそうです。
ある時、寺の鐘撞堂の修理をすることになり釣鐘をどのようにしておろすかと門徒がおおぜいよって評定をしていた。なかなかよい方法が頭に浮かばずわいわいいっていた。そこへ力の強い坊さんがやって来てひょいと釣鐘を持ち上げ吊り金から鐘をはずして下に置いて衣の裾をはたいて門徒衆の前に立った。それまで住職が力持ちだということは知っていたが改めて住職の大力に関心した。
また。大阪へ半鐘を買いに行って、(門徒総代と共に)約束の半鐘と違う半鐘を鐘商人が売りつけようとしたのを、半鐘を片手で持ち上げて中を改めたので、鐘商人がびっくりして約束の鐘を出して許してもらったこともあった。誰いうこともなしに伊予の鬼坊主というようになった。
(明教寺の門徒から聞いた話の要約)
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25.長ぼんぼりの話
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垣生に伝わる昔の話です。浜中に(本郷の一部)代作というたいへん孝行な若い衆が、母と二人百姓をしてひっそりとくらしておりました。代作は父が早く死に十四、五歳で家の大黒柱となり、大人にまじって日雇い稼ぎで人々を感心させていた若者でした。
母は、六〇歳を過ぎて一人前の働きができず、息子の代作の助けがいる生活でした。当時地域のならわしで、年を取って働けない老人は、みな一様に「番屋嶽」で往生することになっておりました。(番屋嶽の地名は今もあり、垣生山の北の隅を少し登った所、現在灯台がある所を苫立山といいます。その苫立山の峰を登って長磯の頂上までを「番屋嶽」といっています。それは昔西条の殿様が紀州よりお国入りの折、此の崖の頂上付近に「番所」を設けて水先案内の役人を置いて下段の「苫立」でのろしを揚げ「御代島」に合図を送った地点で地名として今に残された山崖です。)
その時代は、年を取るとみな一様に「番屋嶽」を老人の墓場としておりました。代作の母は、「代作や、わしも年を取り過ぎて番屋嶽に行くのが遅れとる。隣の婆も昨年の今頃は山に入ってしもとった。秋の甘藷の取りこみがすんだら、寒うならないうちに、人に気づかれないようにして山に行きたいわい。支度も前々からして、覚悟もついているから山へつれて行ってくれ。」
といって頼みました。孝行者の代作は母の願いは切なく、また母が恋しい。一度はふみきらなければならない悲しい別れです。地域の掟にはさからうことはできません。
「それでは婆さんや、今月の満月の夜、地区の年寄りの待っているお山に行くことにしよや、今晩は私が負い籠をつくることにするかいな。」と代作は、涙ながらに作業にかかった。
親を慕う子、子を思う親心、貧しいがゆえに親子が離別しなければならない心境は今の世の人には知るすべもありません。月の煌々とさえる晩に代作は母を背負い、淋しい山道を重い足をひきずり晩屋嶽に向かって歩みました。
「母さんよ、このマツの根方に草を敷いて寝床をこしらえるから、ひもじゅうなったらこの袋の中の甘藷か、握り飯を食べてくれいやあ。竹筒に水も入れて来たきに飲むんぞな。誰も来んから一心に北の方「明神嶽」を拝むのよ。「大明神」は吾らの守り神だからねや、優しくおかげを授けてくれるけにのう。三日して月が昇るとまた来るからのお。」
親は子の手を取り、子は母の涙を堅い手で拭いた。切ない別れをして代作は、とぼとぼと家路についた。代作は、仕事も手につかず眠られず、三日後の月の昇るのを待ちかねて「苫立」の「番屋嶽」へ登っていきました。「姥口」を過ぎて北の方を眺めると一丈余(約3メートル)もある長い提灯が青白くともり、月に映え、代作の歩む草むらを照らしておりました。
「ああ母さんが、わしを案じて導いてくれているのだ。」
とこころはやり、母を置いたマツの根本に行ってみると母の姿はなく、大明神の方向できらきらと三度光が放たれるのをみました。
それから後も、番屋嶽から苫立にかけて、月の晩長い長い提灯がつくという話が残っています。
(八幡三 故 近藤政好 投稿)
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26.畑でタコを獲った話
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昔、垣生の北沖(垣生六丁目)の海岸近くの砂地の畑に、アズキをつくっていることが多かった。ある年、いつものようにアズキをつくっていた。雨加減がよく、その年はアズキの豊作が見込まれ百姓が喜んでいた。収穫期が近づいた頃かえあ、毎夜のようにアズキが何者かに盗まれるようになった。それも多量でなくさやは残っているのに実だけが盗まれている。不思議なことに砂地なのに人の足跡が残っていない。
百姓は、毎晩少量だが盗られるので腹を立て見張りに行った。月のない夜だったがまたも盗られた。業をにやした百姓は今度は家族全員で番をすることにし、どうしても捕えてやろうと意気込んで畑の番に出かけた。
月が出ていないが星が降るような晴天だった。星明かりに眼がなれた頃、アズキ畑に背の低い坊主頭の者が入って来た。じっとみていると、低い坊主頭がだんだん番をしている百姓の方へ近づいて来た。持っていた棒が届きそうになったので、坊主頭目がけて打ちおろした。たしかに手ごたえがあった。坊主頭のものが、「キュー」といって倒れた。百姓の家族は、すぐ持参の提灯に火を入れて集まった。よく見ると大きなタコが倒れている。虫の息で。
百姓は、
「海でタコを獲った話はあるが、畑でタコを獲った話は聞いたことがない。」
といいながら大きなタコを担うて家に帰ったとさ。
(垣生の昔を語る会で出た話)
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27.川口の大石と石の錨
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垣生五丁目八・九番の付近の入り江を、昔から川口と呼んでいました。
その川口に、聖徳太子が垣生においでになり、船より陸に第一歩を踏みしめたといい伝えている大石があります。その大石に人の足跡がついています。それを聖徳太子の足跡と呼んでいます。
その大石より西南約300メートルの所に(垣生五丁目四番)聖徳太子を祀っている太子堂が在ります。(垣生の人はお太子さんとよんでいる)今は無住(住職がいない)のお堂ですが、つくりはしっかりしています。その太子堂の境内の西南の隅に、太子が上陸する時舟を固定するために使ったという石の錨があります。大きな石に縄を通した穴だという穴もあいています。
(垣生の昔を語る会ででた話)
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28.奥七番の無垢の話
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別子銅山が開坑されるより前の話です。
奥七番(今の別子山村)の近くに年を取った夫婦が住んでいた。奥七番付近で採集される金鉱よりわずかの無垢(純金のこと)を集めて大坂のハイ屋(後の泉屋、住友のこと)に持って行って買ってもらっていた。
毎年きまったように無垢を持って来る老爺より買っていたが、一層儲けようとハイ屋の番頭が、
「お爺さんこれは無垢でのうて赤だよ(赤とは銅のこと)うちは無垢と思って買っていて大損をしている、これを赤の値なら買ってあげる。」
といった。老人は不満であったがせっかく大坂まで持って来たのだから、一応赤の値で買ってもらってすごすごと奥七番へ帰った。そうして老婆に無念そうにいきさつを話した。
老婆も不満だったが老夫を励まして翌年自信のある無垢を持って大坂へ行きハイ屋に自信満々顔で持って行った。ハイ屋の番頭は一目見て、「爺さん今年のもアカだよ、アカの値なら買ってあげよう。」
と冷たくいった。
「これを無垢でなくアカだというんなら、もう売らない。ハイ屋さん、ハイ屋さんはこんなに大きな店になったのは私が持ってきた無垢のおかげであったのではないですか。もうこの無垢は売らない。もう来年からも来ない。」
といって無垢をかついで奥七番に帰り、老婆と共に、
「無念だ、せっかく掘って得た無垢だのに。」と。
生きる希望を失った二人は、「もうこの無垢は末長く隠そう。」と坑口を塞ぎ、坑口で差し違えて命を落とした。うらみごとを残して・・・・・・。
それより奥七番の坑口は、二人の霊力からか見つけることができなくなった。
一方ハイ屋は、無垢を売りに来なくなった老爺はどんなにしているかと銅山峰に番頭がやって来て、無垢を売りに来ていた老人がうらみごとを残して自ら命を果てたことを聞いてきのどくに思うと共に、無垢を掘り出した坑口を捜したが見つけることができなかった。が、赤の露頭を見つけ、それを採掘そた。それが別子銅山で新居浜発展の基となった。
その後も無垢の坑口を捜したがとうとう見つけることができなかった。老夫婦が末長く隠してやるといったことば通りに。
(宇摩郡土居町 篠永明さんの話の要約)
垣生の地名(一)
垣生の垣生は「埴生」の誤記でないかとも言われている。はにふを略して「はぶ」と言ったらしい。垣生山には昔良質の埴土を産していたらしい。明治の末頃まで小路山(垣生山の一部)に瓦土を産出していた。
三開 垣生の塩田を開拓した名残。一開浜・二開浜・三開浜の順に開拓したらしい。三開は今公民館の建っているあたりをいった。
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29.タヌキを化かした話
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昔、垣生の塩田で採れた塩は、垣生塩といわれ上等の塩で、東は三島まで西は周桑の中ほど辺りまで売りにいった。
塩売りは朝まだ暗いうちに家を出て一日中売りあるいて日が暮れて帰る日課であった。
「垣生の塩売りは吾が子を知らぬ。朝は夜に出て夜になって帰る。」という俚謡が残っているぐらいだ。
土居の野田あたりへ毎日塩売りに来る男がいた。ある日、塩の売れ行きがよく、久しぶりに日のあるうちに家に帰って吾が子の顔もみようと、みやげに稲荷寿司を買って、阿島の峠にかかった。するときれいな小娘が現れ不安そうな顔をして、
{おじさん・私垣生へ行きたいのにこの阿島の峠が気味悪い。連れて峠を越えてつかさい。」
と言うので、塩売りの男はその小娘を連れて峠を越すことになり、よもやま話をしながら峠の頂上まで登りひと休みした。塩売りの男は、疲れていたのかついうとうといねむりをした。
はっと眼が覚めてみると、さっきまで連れだっていた娘が見あたらぬ。先へでも行ったんだろうと思って、道々急いで家に帰った。家に帰って塩売りの男は、
「おとうがおみやげもって帰ったぞ。さあよって来いや。」
と子供たちに声をかけた。子供たちは喜んで集まってきた。
「おとうは今日はうまい稲荷寿司をみやげに買うて来たぞ。」
といって包みを開けると、ひからびた馬糞が出て来た。子供たちはがっかりするし、怒るに怒れず、塩売りの男は「あの小娘眼、タヌキの化けたのに違いない。この仇きっと打ってやるぞ。」と腹の中できめ、子供をなぐさめて事を納めた。
その後毎日のように阿島の峠を通ったが、タヌキは出て来なかった。十何日かたって、また塩が早く売り切れたので、土居で前の時よりたくさん稲荷寿司を買って、阿島の峠にさしかかった。油揚げのこうばしい香りに誘われたのか前のようにかわいい小娘が現れて前のように垣生へ連れていけと頼まれた。塩売りの男は腹の中で「また来た、今度は仇を打ってやるぞ。」ときめたが表面は親切そうに対応した。峠にかかると小娘は大儀そうな様子をし足がなかなか運ばない。塩売りの男は、
「娘さんや、疲れているようだね。この荷を片荷にして片荷にあんたを乗せて垣生まで行ってあげよう。」
と誘いかけた。小娘が喜んで塩売りの男の提案に賛成し、片荷の籠の中に入って塩売りの男にかついでもらうことになった。小娘は気持ちよさそうにしていた。峠でちょっと休んだ時、塩売りの男は小娘の入っている籠の蓋をしっかりと縄で縛って逃げられないようにし、そのまま家に帰えった。小娘はタヌキの正体を現し逃げようとしたが逃げられず籠の中で狂ったようにあばれた。
家に帰った塩売りの男は奥さんに湯をわかさせ、その沸えたぎっている湯に籠ごとつけてタヌキを殺してしまった。
(宇摩郡土居町 篠永明さんの話)
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30.泥棒が金を盗んで隠したのを盗った話
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昔、多喜浜の塩田土手を半月の夜ある男が家路へ急いでいた。行手に人の気配を感じて土手より降りうかがった。人は二人だった。こそこそ話をしている。話の様子ではどうもどこからかお金を盗んで来て処分を相談しているらしい。話がまとまったのか土手の中ごろの土を掘り、盗んで来たお金を埋め、「来年の今夜二人がここで落ち合って埋めたお金を掘り出し分けようではないか。」といって二人の泥棒はつかまらないよう東西に別れて立ち去った(土手の下で二人の話や、行為を見ている人がいたということを夢にも思わず)。
泥棒の二人が東西に分かれて立ち去ってから今の時間で一時間余りもその男はじっとしていた。もう泥棒がひきかえす様子がないのでその男は四方を確かめつつすばやく泥棒が埋めたお金を掘り出し、掘り起こしたことがわからないように土をならして、自分の家へ大金を持って帰り、ぼろに包んで物置の隅に隠しておいた。お金はちょっとも使わずそのままにして・・・・・。
ちょうど一年たって約束の日に二人の泥棒が約束の時刻に落ち合い、隠した所を掘り起こしたがお金がない。お互い相手を疑ったりしたが話をしているうち誰かに盗まれたらしいということに気付き、もうあきらめるよりしかたがないと思い、二人の泥棒はすごすごと立ち去ろうとした。が、一人の泥棒は、「よしどうしても捜し出してやろう。」と心にきめ、いろいろ聞き込みをした。ちかぢか家を建てた人はいないか。田畑を買った人はいないか。くらし向きがよくなった家はないか等々、けれどそんな人は見あたらない。
泥棒のお金を盗った男は二年ほど月日がたって少しずつ使いかけた。この男は賢くて小さな商売を始めた。儲けを少なくして商売をしたので「あの店の品物は安い」と評判になり他地域からも買いに来るようになり店が繁昌した。
泥俸の一人が三年目にまた多喜浜へ来てまた間き込みをした。が怪しいことは何一つわからないで立ち去った。次の年即ち四年即ち四年目にまたもやって来て間き込みをしてどうもこの商売を始めた男は怪しいと睨んで、商売をしている家にやって来て一夜の宿泊を求めた。
店の主人は気持ちよく宿泊をさせ手厚くもてなした。そして夜半まで語った。夜半すぎ店の主人は、
「私を知っていて来たんかの?。」
といい出した。泥棒はびっくりした様子をして、
「もうすんだことだ、何にもいいたくない、聞きたくもない。」といった。
翌朝店の主人は早く起きて垣生の魚市場に行ってタイをご三枚買った。そしてタイの料理をして旅の男(泥棒のこと)を丁重にもてなした。
旅の男は満足して、商売をしている店の主人に、
「もうすんだことだ、何にもいわん。けれど私は年に一度タイ時分にやって来るから、気持ちよく泊めてほしい。」
といって立ち去った。その男はそれから毎年五月のムギが色づく頃やって来て一泊して帰るようになった。旅人が来ると商売をしている男が垣生の魚市場で大きなタイを買った。
そのことが垣生を中心に評判になった。商売を始めた男は、まじめに働き後にりっばな家を建て今でいう福祉にも金を出して地域の人の信用を得て人望家となって一生を送った。
(宇摩郡土居町篠永明さんの話の要約)
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31.尻きれウマの話
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垣生の小路の地域のはずれ(小路より町へ通ずる道のはずれ)にお地蔵さまを祀った小さな堂があります。昔から地区の人たちが「お地蔵さん」と親しく呼んで信者の多いお地蔵さんでした。
昔はこのお地蔵さんの付近は人家のない淋しい所でした。子供たちは、タぐれ以後ここを通らないといけないお使いなど怖がって行くのをいやがりました。
それは本郷あたりの大人が子供の躾の一つとして、
「そんな悪いことしよったら、お地蔵さんの尻きれウマが出るぞ。」
といっていた。また子供が外で遊んで日が碁れても遊びほうけてなかなか家に帰らないことがあると、
「さあもう帰らんとお地蔵さんの尻きれウマが出るぞ。」
ともいった。そのことがきいて子供は昼でもお地蔵さんの前を通るのを恐れるようになったのだろうといわれている。
(垣生の昔を語る会で出た話)
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32.石鎚山と米軍用機
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今度の戦争の末期、垣生で次のような話がされていた。
「アメリカの飛行機が、広島や福山などを爆撃に行くのに、石鎚山の上を飛ばずに豊後水道や紀伊水道の上を飛んで行くのは、石鎚の神様が、自分を足の下に見おろすようなことをさせないように飛行機が飛べないようにするためだ。やっぱり日本は神国だから。」
といっていた。
(垣生の昔を語る会で印南菊太郎さんが話してくれた)
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33.天狗岩の七人みさき
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垣生の東海岸に古垣生という垣生で最も早く人が住んでいたという所がある。その古垣生の北の端に岩が天狗の形に似ているといえば似ているというので誰いうともなく天狗岩と呼んでいる岩がある。(今、新居浜東港の埋立で陸地に囲まれた形になっている。)
昔、その天狗岩の近所でかわいい娘さんが身を投げて自殺した。それ以後その死んだ娘さんが七人まで人を海に引りばりこんで死者の伸間にするのだといったとか。で、垣生の人は「天狗岩の近くで海水浴をしていると七人みさきに海に引っぱりこまれるぞ。」と言いつたえている。
(垣生の昔を語る会で出た話)
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34.金比羅宮の大マツ
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垣生三丁目の長岩橋の近くに、金比羅さんに祀ったお社がある。石の鳥居・石段などかなり年を経ているようだ。この金比羅宮に大きなマツがあったそうです。何百年経ていたのか、枝が今の山端の自治会館まで伸びていたといいます。身軽な若者が夏などその大マッに登り、横に出ている枝に背をつげて昼寝としゃれこむ人もいたといいます。
文化三年(1806)、垣生に大火があって山端地区がほとんど焼けてしまいました。
焼けた家二○○軒ともいわれる大火でした。その大火によって、山端の者が自慢し大事にしていた大マッに火が移り、七日七夜燃え続けとうとうあとかたもなくなってしまったといいます。
その大火の時法泉寺の壇家の方々が、お金や食料や衣類などをお見舞いとして集めて山端の難民に義捐して下さいました。復興が済んで、山端の人々は法泉寺へのお礼に大きな手洗を寄贈しました。
(垣生の昔を語る会で話してくれた話)
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35.嬶みせどころ
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昔、垣生の浄土真宗の門徒の人が京参り(本願寺参り)に行った。何といっても京は京です。本願寺詣りをすませ、何もかも珍しいものばかりの京見物をいたしました。
京の町を見物してあるいていると、ある店に、
「カカミセトコロ」と看板の出ている店を見つけました。垣生の人の息子(あととり)はちょうどお嫁さんの募集中でしたが、農家の息子でなかなか嫁さんが見つからず、少ながらずあせっていました。
「カカミミセ」
と書いてあるのを見て垣生の男は心の中で、「さすがは京じゃ。お嫁さんを売る店まであるのか。来年は忰を連れて嫁さんを買うて帰ろう。」ときめ、垣生に帰って一生懸命に働きお金をたんと持入て翌年枠忰連れて京に上った。目ざす店の様子がすっかり変わって店の看板に
「コトシヤミセン」
と書いてある。今年は見せてもらえないのかとがっかりして垣生へ帰った。今年は見せてもらえなかったが来年は大丈夫と、また一年一生懸命に働いてお金も十分持って京に上った。が、目ざす店はあい変わらず、
「コトシヤミセン」と書いてある。去年、コトシヤミセンであったので今年はだいじょうぶと思ったのに……。
合点がいかんので店に入ってたずねると、
「私の店は琴・三味線屋です。それをカナで書くとコトシヤミセソ(今年しや見せん)です。」
というので、垣生の男は「嬶みせどころと三年前に看板が出ていたでしょう。」といってたずねると、
「それは鏡店でした。(カカミセドコロ)」
とのこと。垣生の男は、カナで書いているのを自分に都合のよいように読んだことがわかって大笑いするとともに、がっかりして垣生へ帰った。
垣生の男は、京で嫁さんを買うなどということをあきらめ、一生懸命働いて垣生のすばらしい娘を嫁にもらって幸福にくらした。
(今から七十年程前垣生の老人園部某よりきいた話)
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36.タヌキのいたずら
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垣生にも昔からタヌキのいたずらの話がいくつか残っている。
雨が降ると、タヌキが山から下りて来て人家の近くで食物をあさっていた。米屋の近くの(垣生三丁目と四丁自の境あたり)往還の、石の橋の下でアズキを洗うような音がよくしたので、アズキ洗がおる、アズキ洗がでたといって子どもたちは恐れていた。
唐樋の入海(今、江ノロのボンプ場のあるあたり)の潮が干いた干潟を、夜半誰か走っている。月明りによく見ると、垣生のお医者さんであった。それを見た村人が声をかけると、
「病人の家へ行きよるんじゃ」
と答えた。タヌキに化かされたのかと、村人が数人でお医者さんを入海より引き上げた。お医者さんも、タヌキに化かされたということがわかって大笑いした。
(昭和五五年七月九日垣生の昔を語る会で出た話)
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37.大魚のいたずら
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昔のこと、垣生山の東の沖(今、新居浜東港としてフェリー乗場になっているあたり)を山端の漁夫が、まだ暗いうちに舟を出して長岩(今は埋立てられて陸地になっている)を避けて天狗岩の近くまで来た時、舟が何かに乗り上げて櫓がたたなくなってしまった。
漁夫は、はてこんな所に岩などないはずだと、少し東が白みかけて薄あかくなって来たので、目をこらして見つめると、舟が大きな黒いものの上に乗っかっている。どうも見たことのない岩だ。なお目をこらして見つめると、大きな魚のように見える。漁夫は恐ろしくなって、舟の中でぶるぶるふるえていた。ふと、毎朝家でお念仏物を唱えて漁に出るのに、今朝は忘れていたことに気がつき、一心にお念仏を唱えはじめた。
しばらくして、大きな魚がしずんで舟が浮き、櫓が使えるようになった。漁夫はいちもくさんに垣生の舟だまりに逃げ帰り、二、三日寝こんでしまった。それよりあとそのような魚をみたものはない。
(昭和五五年七月九目垣生の昔を語る会で出た話)
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38.いの谷の大蛇
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昔、垣生山の「い」の谷に大きなヘビが棲んでいた。がこのへビは人に危害を加えることがなかった。垣生の人は、何人もそのヘビを見ましたが、見て見ぬふりをしていました。
ある年の夏の終わり頃、大きな台風がやって来ました。山端のある漁夫が、つないであった舟の様子を見に長岩の方にやって来ました。東の風が強く、岸に高波が丸山口から清水谷に打ち寄せて、古垣生の方へは行けない状態だったそうです。
その時、ふと沖の方を見ると大きなへビが、大波の中を泳いで大島の方にけんめいに渡っている姿が目に入りました。漁夫は恐ろしくなって自分の家に逃げ帰りふとんをかぶって寝た。
百姓は台風でお米が不作であろうと心配していましたが、その年はあんがいお米がよく取れました。それから後も、「い」の谷の大蛇が大時化の時大島の方へ泳いで渡っているのを誰かが見かけると、その年は豊年だというようになりました。
(昭和五五年七月九日垣生の昔を語る会で印南菊太郎さんが話をしてくれた)
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39.女乙山の白蛇の話
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昔、垣生の法泉寺の裏山の女乙神社に、本郷の青年がお参りに行こうとかなり急な石段を登りかけ、ムクの木の側まで行ってひょいと右手を見ると、男竹の生えている側に白い大きなヘビがトグロを巻いていた。それを見た青年は、恐ろしくなって石段を駆けおり、家に逃げて帰った。
だが、もう一度確かめたくなって友だちを誘ってムクの木のそばまで行ったが、白蛇はいなかった。
しばらく日を置いて、ある男の子がムクの木に登ってムクの実を食べて得意になっている時、ひょいとそばに大きなヘビのぬけがらがさがっているのを見つけ、恐ろしくなって足をすべらしてムクの木から落ち何針も縫合するけがをした。三木さん(医師)に、手当をしてもらったが、いっこうによくならない。おかしいと思って家族の者がおがんでもらうと、「それはへビのたたりだ」といわれたので、女乙山のムクの木のそばの男竹の近くにへビの好きなものを供えて許してもらうようおがんだ。それからはけがのなおりが早かった。女乙山の白蛇はそれよりあとも何人もの人が見かけたそうな。
(垣生の昔を語る会で話してくれた話)
垣生の地名(二)
鳥端 浮島八旛神社の鳥居の端という意味で地名になった。
今東鳥端・西鳥端・南鳥端と三つの自治会に分かれている。
前浜 住居表示前は神郷分であった。垣生の塩田のあと、今垣生三丁目といっている。古垣生 垣生三丁目十三番あたり、垣生で最も早く人が住んだところといわれている。
古垣生の東の海は埋立てられて新居浜束港になっている。
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40.玉崎明神の話
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昔、垣生の町の地域の北側に、弁財天塩田のあった頃の話です。
町より北の墓地に通ずる道を、誰いうともなしに葬列道(ソーレン道)と呼んでいました。そのソーレン道より東側の塩田で、ある寒い夜、釜屋で中年の男が一人で釜を炊いていました。そこへ地域で見かけない美しい娘がやって来て、
「旅の者です。泊る所がなく日も暮れてしまって難儀しています。釜のはたでもよいから一晩とめてください。」といいました。その頃、タヌキが化けて出て人にいたずらする話がよくされていたので、釜たきの男は、てっきりタヌキが化けて娘の姿になって出て来た、せっかくの塩にいたずらされてはたいへんと腹の中で思い、親切そうに見せかけておいて娘に油断させ、頃をはかって娘をつかまえ燃えさかっている釜に投げこんで焼き殺してしまいました。
それから、町地域に悪い病気がはやったり、雷があまったり(落雷したこと)、塩田の土手が決潰したり、火事があったりしました。
悪いことがつぎつぎに起こったのを心配した町地域の人たちは、これはてっきりあのタヌキの化けた旅の娘を焼き殺したたたりにちがいないといい出す者もいて、それではどうしたらよいかと相談した結果、神様に祀ってこらいてもらったら(許してもらうこと)と話がまとまり、小さなお宮をつくり、八幡神社の神主さんにおがんでもらい、玉崎明神と名づけて毎年お祭りをした。それから町地域に悪いことがなくなった。(七○年程前に海の近くに玉崎明神の社があったがいつ頃か行方がわからなくなってしまった。)
(昭和五五年一月三○目垣生の昔を語る会で故岡彦吉氏の話の要約)
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41.タコがイモを掘った話
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昔、浮島小学校が建っているあたりは砂地で、畑作しかできず、イモ、アワなどを耕作していた。
ある年、秋が来てもうそろそろイモの収穫をしようと畑に行ってみると何者かにイモが盗まれていた。よく見ると砂地なのにどうしたことか人の足跡がない。どうも夜盗りに来るらしい。捕まえてやろうと夜番をしていた。番をしていると泥棒が来ない。姿勢をいっそうひくくしてじっと待っていた。なん夜めかに背の低いものが姿勢をいっそうひくくして這うようにしてイモ畑に入りイモを掘り出した。番をしていた男は泥棒が近づいてくるのをじっと待っていた。泥棒が手頃に近づいた時持っていた棒を思い切り頭めがけて打ちおろした。たしかに手ごたえがあった。背の低いものが「ギュー」といって坐り込んでしまった。殴った男がしまったと思って近づいてよく見るとそれは大きなタコであった。それをかついで帰って近所の人に集まってもらって料理をして食べた。とってもおいしかった。
(垣生の昔を語る会である年よりが話をしてくれた要約)
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42.山の神の祭りの日に山に入って見た大蛇
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昔、昔、垣生では山の神の祭りの日には山に入ってはいけないといわれていた。ある欲の深い男が、誰も山に行かないからコキバ(コキパとはマツの枯葉のこと)がたくさん取れるだろうと思い、山の神の祭りの日に垣生山に登った。コキパがたくさん落ちていてすぐ荷ができた。ほくほく顔で、さて一服しようとそばにあった木に腰掛け、煙革に火をつけて吸った。あくをのけようと腰掛けていた木に煙管を打ちつけた。すると腰掛けていた木が動きかけた。びっくりして男は立ち上った。
見ると、木と思ったものは大きなヘビだった。ヘビはスルスルと草の中に這いこんだ。それを見た男は、腰をぬかさんばかりに驚いて、集めたコキバを捨てて山を駆けおり、家にとび込み入口の戸をしっかり締めてぶるぶるふるえていた。それから垣生では、いっそう山の神の祭りの日には山に入ったらろくなことがないといって、入らないようにした。
(垣生の昔を語る会で話をしてくれた話の要約)
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43.苫立とも次郎の話
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垣生の北の方、今灯台のあるあたりの山に、とってもものしりでその上本も読めるタヌキがおった。町地域の人(今の垣生六丁目あたり)は苦立とも次郎と呼んでいた。
けれどタヌキがものしりで本も読めるなど嘘だ、と信じない人も少しはいた。いや本当だと信じる人もいて、ロげんかになり、それではたしかめようではないかということになって、三人の男がたしかめることになった。
三人の男は「とも次郎」がよく出るという小屋へ夜恐る恐る行って待ったが、とも次郎がその夜は現れなかった。
次の夜も行ったが現れない。
「これは三人もいるから来ないのだ。だれかひとりで行っては。」ということになり、次の夜三人のうち一人が小屋のそばに行った。半分壊れた小屋の前に座っていると、夜半すぎ大きな化け物が出て来た。座っていた男はびっくりして腰をぬかしてぶるぶるふるえていた。町地域では見に行った男の帰りがあまり遅いので、いあわせた四、五人で例の小屋の前に行ってみると、腰をぬかしてふるえている男をみつけ連れて帰って、話をくわしく聞いた。そして明神さんにお供えをしておがんだ。
その話を聞いた町のものずきな藤太郎さんは、
「そんなことあるか。こちや(自分と言うこと)見て来てやる。」
と立ちあがった。
「やめとげ、命がのうなるぞ。」
といあわせた者が止めたが、それをふり切って出かけた。そして「とも次郎」が出るという例の半分壊れた小屋の前に座っていた。しばらく時がたって小屋で「ごそ、ごそ」と音がした。藤太郎おっさんは、「おのれ出て来やがれ。」
といいながら小屋に火をつけて、逃がさないように小屋の戸をしっかりしめて待ちかまえていた。小屋に火がまわり、火の手があがると共に、「バン、バン」と大きな音がして小屋が焼けてしまった。
それから「とも次郎」の姿を見たものはいなくなった。
(昭和五五年七月九日壇生の昔を語る会で故岡彦吉氏が話した話の要約)
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44.女乙山のムクの樹に舟をつないでいた話
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垣生の法泉寺の東南に宮がある。そのお官は小高い所にあり、七○余段の石段がある。
その石段の中ほどの左側に大きなムクの樹が天に向かって立っている。
そのムクの樹に昔船をつないでいたという話が語りつがれています。
昔、神功皇后が三韓征伐に行かれる時、垣生に立ち寄られ、そのムクの樹に軍船をつなぎ、船木の木を切り出して、軍船の修理をしたという話が残っている。
垣生はかなり後まで島のようで、垣生五丁目あたりが洲のようであったらしいと古老がいっている。遠浅で満潮の時は、垣生三丁目、四丁目あたりは垣生山の麓まで、海の潮が打ち寄せていた。したがって、満潮の時には女乙山のムクの樹のすぐ下に船が入っていたといわれている。
(垣生の昔を語る会で吉老が話をされたものの要約)
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45.八旛神社の裏の一の鳥居のこと
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八旛神社(八旛神社は昭和三年迄八幡神社と書いていた)。昭和三年八月前宮司久米申氏が高知県葛原の旧家の古文書等の調査によって八幡神社でなく八旛神社だということがわかって改めた。その時久米申氏は全国に八旛神社と書く八旛さまは数社あるといっておられた(尚伊予三島市の寒川の八旛神社はこの旛の字を使っている)。神社の裏の海岸に鳥居が立っている。が、海の中に鳥居が残っているといわれている。
八旛さんも天正の陣(1585)で焼討にあい、社殿を始め古文書等もほとんど残らなかった(この地方を攻めたのは山口の毛利勢だったという)。
戦い終わった後、山口の毛利家には不幸がつぎつぎと起こった。これは、八旛宮を焼いたりしたので、八旛さまがお怒りになったにちがいないという者がいて、神様の御心をなぐさめようと、鳥居をつくって船に積み、八旛神社の裏の北の海まで運んで来て、船より鳥居をおろそうとしていた。
その時、析悪しく嵐になり、運んで来た船頭は、海の中に鳥居を投げこんで逃げて帰った(その後一部を引き上げたのが八旛神社の御本殿の側に置いてある。大部分の鳥居は海の中にそのままある)。いくたびも海中を探したが今に見つかっていない。なぜ海に投げ入れたかについて異なった説を唱える人もある。
(垣生の昔を語る会及高津公民館で老人が話をしてくれたものの綜合要約)
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46.閻魔大王と鰻長さんの話
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昔、昔、垣生に鰻長さんと呼ばれるウナギ捕りの名人がいました。本名は「長右衛門」ですが、あまりウナギ捕りがじょうずなので誰いうともなく「鰻長さん、鰻長さん」と呼ぶようになりました。
その長さんが、ある夏の日急に病気になり、高熱がさがらず、とうとう死んでしまいました。長さんは冥土の国の入口に着きました。門の入口には赤鬼青鬼がいがめしい顔で立っていました。そこの赤鬼に生前の職業と氏名とを間かれ恐る恐る立っていました。しばらくして、赤いいっそう強そうな鬼に門の中へ呼び込まれ、また生前の名と職業を間われました。長さんは、
「私の生前の職業はウナギ捕りでした。」
と答えると赤鬼は、「なに、ウナギ捕りだと、では一日に何匹ぐらいウナギを捕ったか。」と間われたので長さんは、
「はい、はい一○○匹くらいのものです。」と答えるとえらそうな赤鬼は、
「ふ、ふん。」
といったまま黙ってしまい、しばらくして、
「俺のあとに続いてこい。」
といって鉄の棒をがちゃがちゃ音させながら歩くののあとをついて歩きました。長さんが約三キロメートルも歩いたと思う時、大きな門の前に出ました。鬼に続いてその大きな門をくぐると、道が左右に分かれているところに出ました。右側に極楽道と書いた札が立っており、左に地獄道と書いた札が、一段と大きな字で書かれて立っていました。その分かれ道の前で赤鬼はおそろしい顔つきで、
「これ長右衛門、お前は今から閻魔大王の裁きを受けて、ここから地獄へ行くか、極楽へ行くか二つの中だ、たぶんお前は生前ウナギの命をたくさんとった大きな罪があるから、地獄行きに決まるかもしれんぞ。」
というのです。長さんはふるえながら赤鬼のあとをついて行きました。いよいよ三つ目の門をくぐると、法廷のような所に坐らされ、やがて閻魔大王が、大勢の家来を従えて出て来て、正面にいかめしく坐りました。長さんの両側には赤鬼が逃げないように監視しています。
「今から閻魔さまのお調べがある。一つも嘘をいわず正直に申し上げよ、生前のことはみんな照魔鏡に写るのだから、わかったか。」
とおごそかにいうのです。長右衛門は失神しそうに恐れおののきました。閻魔大王は、右手に照魔鏡を持って厳しく正面の座に坐りました。閻魔大王は、しばらく長右衛門を睨みつけていましたが、
「これ長右衛門とやら、お前は生前ウナギ捕りの名人であったというが、そのウナギの捕り方を話してみよ。」
と、長右衛門さんは得意になって閻魔さまの前であることを忘れて、ウナギの捕り方を面自く話しました、手ぶりも加えて。
「一日に何匹くらいウナギを捕るのか。」と閻魔さまがたずねると、
「はいはい少ない日で一○○匹、多い日ですと一五○匹くらい捕ります。」
「ではその捕り方をここでやってみせよ。」
と閻魔さまのおことば、長さんは図に乗って、「閻魔さまウナギというやつはこのようにして捕るのですよ。」
とお尻をまくって、川に入ってウナギを網代で釣る真似をしてみせました。
長右衛門さんは話上手の上に、ウナギの捕り方までおもしろくやってお目にかけたので、閻魔さまは深く感心して気に入ってしまいました。
「よし、よし、感心した。お前は浮世にいた時にたくさんのウナギの命を捕ったので、地獄に行かそうと思っていたが、お前のウナギ捕りの実演を見て感心した。ウナギ捕りというのはまことにおもしろいものじゃのう。この閻魔もやってみたいほどじゃ、よって極楽行きにしてやる。ひまな時に時々遊びに来てまた別の話もしてくれ。」
にこにこしながら閻魔さんが長右衛門さんにこういわれました。長さんは極楽で楽しく今もくらしている。
(垣生の年よりの話と昔を語る会で話されたものの要約)
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47.タヌキの頭にカラスが巣をつくった話
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昔、垣生の新田(今の長岩町)の又野川の西一○○メートル「くの坪の東の方」の田の中に十平方メートルくらいの小高いところがあった。その小高いところに、一本のマツの木が生えていて、そのマツの木のてっぺんにカラスが巣をつくっていた。
山端地区の人が、「田の木のてっぺん(タヌキの頭)にカラスが巣をかけた。」といって珍しがっていた。そして他地区の人に、
「山端にクヌキの頭にカラスが巣をかけている(山端にタノキの頭にカラスが巣をかけている)。」
といって賭けをして勝ったものだと。
(今から七○年程前、年よりから聞いた話、岡部某よりきいた)
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48.「八本松」のいわれ
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旧沢津地区、今は松の木町の海岸に「八本松」という地名がある。大防波堤の西北端より約一○○メートルあまり東寄り付近である。今もその名残りを止めている。この地名の、起こりは古来この付近一帯に八本の古松があったので斯く呼んだものと思われる。この話は八本のマツにちなんだ悲恋物語である。今から少なくとも二○○年前の話、このあたりのある村里に九五郎という青年の百姓がおった。彼の家は付近では屈指の大家であった。しかし、九五郎は身持ちが悪く、紅灯の巷への出入り常ならず、当地での散財ではあきたらず、とうとう、その豪遊が京の都の色里にまで及んだ。そのあげくのはて、京女の一人の美妓とねんごろになり、その交情が深まっていった。その後九五郎はいったん帰郷したが、そのあとを迫って女はやって来た。その頃彼は、今までの不行跡と出費のため、父兄や親戚のきびしい監視下におかれていた。一方女はきびしくもむざんな侍遇をうけ、九五郎が変心したものと思い深く彼をうらみついに自らの不運をかこちながら入水した。
そんなことがあってからは、そのあたり一帯に夜ごと青白い鬼火が点滅した。それを見た里人たちは、京女の怨霊のたたりとしていっせいに恐怖した。ために、里人相寄り京女の霊をねんごろにとむらい小祠を建て「京婦神社」としてお祭りして付近に八本のマツを植えた。
その後、その八本のマツは大樹となり、そのあたり一帯を「八本松」というようになったという。もちろんその後は何の怪も起こらなかったということである。
(浮島公民館)
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49.垣生塩の輸送について
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私たちの住んでいる浮島は、垣生村から分家新宅してきたのが始まりで、生活習俗は今でも垣生と同じ様式を踏襲してきている。垣生では、前浜と弁財天で昭和初期まで天日製塩(入浜式)が行われており、その淵源は多喜浜塩田よりはるかに古く江戸初期以前にさかのぼるといわれるが判然としない。
「西条誌」の「垣生村」の項で「塩」について次のように記されている。「塩やく家二十軒あり、南北ニケ所に分る、北を弁財天浜と言う九軒あり、南を前浜と言い十一軒あり…当所の塩多くは産せざれ共性味よきを以て昔は芸州広島にてこれを用ゆ然れども其足らざるを以て今は讃岐より積廻す、これを讃岐垣生と称ふ当所より行は止たり、当所より今は大州辺へ積む」とある。即ち、垣生の塩は広島へ積送されていたが、量的に不足するため讃岐の塩を買い足して讃岐垣生の名で積み出していたが、やがて垣生塩は売れなくなり大洲辺へ積み出していたというのである。そしてこの塩の海上輸送の記録が愛知県知多半島の「野間町史」に次のとうり記されている。
「伊勢大湊町役場所蔵文書に見える永禄年間(1558-1569)の古日記写しによると当時すでに宮(熱田)を始め常滑・野間師崎等の諸港の船がたえず大湊に集まっていたことが知れる。同港を経て西四国地方に廻航する船も少なくなかったと考えられる……野間の回船は始めは「塩」積截せるものではなく、主として大阪方面に商品を積んで往復したようである……野間の廻船も始めは大阪通いをしていたというから、上方に廻船した序に十州地方の塩移送の有利であることに着目し何時しか積載して各地に移送する様になったらしく、その起源は天明年間(1781-1788)のことではなかったかと云われている……」。即ち野間船が西四国地方へ廻船され、大阪通いの商品を主として輸送していたが、塩移送の有利性に目をつけいつしか各地に塩を運んだというのである。
この記録から考えると、江戸時代当地方の産業生活構造は、この野間船による塩輸送を縁として、大阪方面、広島方面、讃岐・大洲はもちろん、伊勢大湊、ひいては知多半島の尾張藩・西条藩ともに徳川親藩であったことなどともあわせ考えられる。なお右「野間町史」のうち「十州地方の塩移送」の「+」の字は「予州地方」の「予」を行書で書かれた古文書の誤読ではないかと美浜町教育委員会に確認したが「十州地方」にまちがいないとのことであった。
(八幡三丁目 三浦覚氏 投椅)
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50.待合谷の伝説
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垣生山には小字名の地名が多い。通称「マチヤタニ」と呼ばれるのもその一つである。「マチヤタニ」は「待合谷」の意で、往古の垣生特に町・浮島地区の集落の発祥地である。当時は物々交換の時代で、この地方の住民はある一定の日時を定めておいて、その日になると、それぞれ自分の家で採れた果物や野菜、家具・調度品などをこの地に持ち寄り、お互いに自分が欲しいものと交換しあっていた。貨幣経済の発達した現代とはちがって、ヘんぴな原始生活をしていた人々にとっては、この交易の場は唯一のコミュニケーションの場でもあり、種々の情報や文化の発達の根源ともなっていた。また、この地は交易だけではなく、重要な公私の相談事から若い男女のしのび逢い、その他いろいろの待ち合わせや会合の場所に使われていたと伝えられる。しかし開発の進んだ今ではその場所をしのぶよすがさえもなく、口にする人も少ない。
(八幡三丁目 三浦覚氏 投稿)
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51.狐狸にまつわる民話
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浮島地区には昔はタヌキやキッネが棲んでいたらしい。例えば「豆屋の角で一服していたらタヌキに煙草入れをとられた」「近所ヘボタ餅を持って行き着いて見たら空りぽになっていた。またキッネに化かされた」というたぐいである。
あれは昭和十年頃と記億するが、お初さんという目の不自由な老人がいて按摩を生業としていた。ある冬の寒い午後、その日は沖の家の人から声をかげられ、お初さんはその家に出かけていた。仕事のあと夕食を呼ばれ帰る頃にはすりかり暗くなりおまけに雪となっていた。その家の人は、お初さんを自宅まで送り届けようとしたところ、若い娘がお初さんを迎えにきたといいながら傘をさしかけるので、安心してお初さんをその娘に託した。ところが翌朝、路傍の凍て田の中で凍死しているお初さんが発見されて大騒ぎとなった。「お初さんはキッネかタヌキに化かされた。」といううわさ話も今では遠い昔の悲しい狐狸にまつわる物語である。
(八幡三丁目 三浦覚氏 投稿)
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52.高津村字寄留地
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今頃の若い方たちには、高津村字寄留地といっても、どの辺か見当もつきますまい。実は今の八幡三丁目の一部であります。
私たち一家は、大正九年(1920)垣生村本郷から高津村字寄留地に転居しました。正式な地名は高津村字宇高でありましたが、住んでいる人たちは全員垣生村出身でありましたから、垣生の人たちが高津に寄留して住んでいる所という意味で、寄留地は俗称であります。しかし俗称を便用しないと郵便物が届かなかったり、届いても二、三日遅れとなるのが普通でありました。というのは寄留地の郵便物は垣生村同様多喜浜局扱いで、宇高や沢津は新居浜局扱いであったからであります。
私たちは垣生の小学校がすぐそこにあるのに、高津村立の高津小学校まで一年生の時から足を棒にして通い続けなければなりませんでした。高津小学校では寄留地からの生徒はきわめて少なく、方言や生活習慣・気質なども宇高・沢津とかなりちがっていましたので、ともすればよそ者の目で見られがちであったように思います。その証拠に、チョット悪さでもしようものなら「垣生の奴・ナスピ食らい・ヘんどの子」などといって、おこつられたものであります。ナスビ食いとは、ナスビを生のまま食うということで、宇高や沢津の人たちとは垣生の人の食生活でもかなりちがっていたからであります。
さて昭和十年頃になって寄留地という俗称が浮島という俗称にかわりました。故郷からの手紙に高津村字浮島という文字をみて、どんなにうれしかったことか。下宿のおばさんが、
「あんたの故郷は浮島ですね、きっと景色の美しいところでしょうね」
とお世辞をいってくれたことは五○年以上たった今でも忘れ得ないのであります。
最近になって浮島は八幡三丁目と変わりましたが、寄留地時代の住人がしだいに少なくなってまいりますので思いだすままに一筆したためるしだいであります。
(八幡三丁目 印南忠一氏 投稿)
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53.的場のマツ
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八幡一丁目一九番の八旛神社より高丸の方に通じている道の右側に「的場のマツの跡」と石碑が立っている。そこを少し高津の方に行って八幡一丁目一八番の南側の道路添いに「富留土居城跡」の石碑が立っている。
この的場は富留土居城の武士たちが弓の練習をした所だといわれている。大正時代(1912-1926)になっても的場跡には大きなマツがあった。そのマツが古くなったので材木屋が貰って切り倒すことになった。切り倒してみると皮の部分が生きていて中が空になっていた。付近の人は、
「昔弓の稽吉の的にしていたので中は空になったのだろう」
とロ々にいった。その後「的場の松」の後継にマツを植えてはと年寄りなどから話が出たが日陰になるなどの反対をする者がいて、後継のマつの話がまとまらずそのままになった。
皮だけのマツは使い道がみつからず、放水池に置いてあったがいつの間にか姿を消した。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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54.八本松の話
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昔、今の松ノ木町の北の海の堤防に八本のマッの木があった(今は全くない)。そのマツには次のような話があった。
昔、宇高の在の大家の息子に放蕩者がいて、派手好きで京まで足を伸ばして遊び狂った。宇高へ帰ることになって、八人の芸妓を連れて帰った。それを見た父母や親類の人が怒り、家に入ることさえ許してくれなかった。そこでその放蕩者の男が困って八人の芸妓を海にしずめて殺してしまった。それからその男の一族によからぬことがつぎつぎと起こった。それは芸妓の怨霊が崇ったのではないかといいだす者がいて、その放蕩者は恐ろしくなり、八本のマツを植えて霊をとむらった。また自分の家の屋敷内に祠を建て、京婦神社と名付けて八人を祭った(その放蕩息子は富留土居城主高橋氏の一族だともいう)。
(高津公民館でお年寄りより間いた話の要約)
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55.天狗にさらわれた話
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元文四年(1739)三月のある日、宇高の下原の在の清松さんの男の子供が天狗にさらわれるということが起こった。その子は天狗に金子の王子山の方に空に飛んで連れて行かれた。
後に千代松(天狗にさらわれた男の子)が修業をつんで、王子権現の脊族となった。当時、王子の近くに大きな淵があった。その淵の側に時々赤草履が置かれることがあった。
ある日宇高の在の人が畑に出て野良仕事をしていると千代松さんが天狗になって空を東に向かって飛んでいて野良仕事をしている知人に、
「今、松御子の寺の焼討ちに行くところだ。とったん、かあやんに会いたいが、天狗になてしまった今、会うことはできない。あんたから千代松が元気でいるというてくれんかね。」といい終わるとまた空を飛んで東の方に消えた。
王子権現は石鎚山から石を神様が投げたその一つで、つづら淵もその一つだといわれている。
明治三年(1870)に王子権現の境内のマツの木を切ることになり、新須賀の某、同じく新須賀の某、向原(今の東高の付近)の某さんの三人で請負って切った。そのマツの木の切り口から赤草履が出て来て切った三人はもとより付近で見物していた人も不思議がった(中には気床悪がる人もいた)。切った三人ともわけのわからぬ病気になり寝込んでしまった。
それ以後王子権現の木を切ったらいけないといわれている。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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56.六神さんの話
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東雲町二丁目五番に小さなお宮がある。もとは広い境内を持ちりっぱなお宮であったという。付近の人々がよくお参りをしていた、人によって東雲神社とも小野神社とも呼び、古い人は六神さんと呼んでいる。
昔この付近に大きなマッの木があった。またエノキの大木もあった。が、マツの木は大木になって、台風などで倒れてはたいへんと伐り倒すことになった。伐りかけると木から水が吹き出、鋸がしめられたりして伐ることができず、タ方が来たので一晩置いても大事なかろうといったん中止して樵が帰った。その晩のうちに大きなマッの木が枯れてしまった。
その直後、樵が病気になり死んでしまった。おがんでもらうと、
「お前らには水に見えたがあれは血だ」
といわれ驚いてそこに神主さんに頼んで小さなお宮をつくり「六神さん」と呼んでお祭りするようになった。のち、東雲神社とも小野神社とも呼ぶようになった。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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57.東雲のお地蔵さんの話
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東雲町二丁目五番の道端に小さなコンクリートでつくったお堂がある。前には鉄の格子がはまっている。そのため何だか近よりがたい感じがする。お堂の中に小さなお地蔵さんが祀られている。このお地蔵さんには次のような話がある。
江戸時代(いつ頃かはっきりしない)に松山藩の人で柴田某というばくち打ちがいた(今のヤクザらしい)。この柴田某が何か悪いことをしておたずね者となり、桜三里を越えて新須賀の天領地へ逃げこもうと思って、変装して役人の目をごまかすのに何がよかろうと思案の末、旅の修行者になりすますことにし、道端の小さなお地蔵さんを背中の仏壇に入れて桜三里を役人の目をかすめてぶじ新須賀に入ることができた。
柴田某が後に改心して善人になり背負って来たお地蔵さんを祀って朝夕お経をあげて信仰していた。いつの間にかそのお地蔵さんが「子育て」や「安産」に御利益があると信仰する人が多くなりました。のち、松山よりお地蔵さんを返してくれと使いが来たそうですが話がまとまらず、今も東雲でりっぱに祀っています。新須賀が天領だったので犯罪者が逃げ込んでも西案藩とか松山藩などの手が及ばなかったのでいろいろ犯罪者が逃げ込んだという話が残っている。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
高津の地名(一)
高津という地名は
字高村と沢津村が合併の時それぞれ一字をとり高津村と名をつけた。
宇高村 鎌倉時代新居氏の一党に宇高氏がおり、以降宇高と名のる人何人かいた。それから名をとったのではないかという。
沢津村 近世まで湿地が多く、津と呼ばれる所が多かった。
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58.沢津の墓地にある安産のお墓
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沢津町二丁目にある小松満正寺(阿弥陀堂というほうが通りがよい)は俳人小林一茶が寛政七年(1795)に二泊した寺だという(門の側に「長閉さや 雨後の縄張り 庭雀」の句碑がある)。
この寺、(お堂といってもよい。)の御本堂の裏に、「小野おさん」の墓がある。この小野おさんという方はどんな方であったか知る人がいない。けれど安産を願う人が、お詣りをすると御利益があるといって、今も妊婦の方の信仰を得ている。(本堂の裏に「安産の墓」という立札が立っている)。墓に小野おさん、明和三年(1766)の銘がある。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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59.高せんぼうの話
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昔、宇高の人が、郷より日が暮れて間近く、家に帰ろうとして小川のそばの道を急ぎ足に歩いていると、目の前にとっても背の高いものが道をふさいでいる。その宇高の人は、これはてっきり高せんぼうが出たと思い、かねて年寄りから教えられていたことを思い出し、あわてず自分の背を低くしてじっとしていた。するといつの間にか高せんぼうが消えて道が通れるようになった。その人は、昔から高せんぼうに出会った時の心構えを、年寄りから聞いていてよかったと村に帰って友人等に話した。
高せんぼうが出た話は宇高の下原と八旛さまとの間にも残っている。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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60.瀛津神社の話
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瀛津神社は沢津にあります。祭神は瀛津姫明神です。
昔沢津の小野元治居館から少し離れた少し小高い所に大エノキがあったそうです。伝えによると天正十九年(1591)七月十八日の晴天の夜皎潔四方風雲がないのに大エノキが倒れた。その倒れた地響きがあまり大きかったので何ごとかと老若男女外に走り出てあぜんとし、恐れおののいていた。夜明け頃倒れていた大エノキがもとのように立ちあがった。そこで村人が集まって一度倒れた大エノキの下に祠をつくってお祭りをした。元治の頃(1864)に神様のお告げで、大エノキの樹の下の神様は瀛津姫の神だといわれ、地域の人はもちろん、近郷の人のいっそう崇敬するところとなった。
このようにたくさんの人の崇敬される女の神である瀛津さんはどうしたことか荒神さんといわれ、お祭りの時など神輿をかつぐ人々は荒々しい行為をすると神様が喜ばれるといってかなり荒れ狂った。ある年のお祭りにセセナギ(汚水溜)の水を手桶に汲んで榊の小枝につけて露払いの清めだといってふざけ、村中を酒に酔っ払って神輿をよろよろとかつぎあげくの果て神輿を「セセナギ」ヘ突っこんだまま一夜をあかした。
祭りのあと、沢津に悪いことがつぎつぎ起こった。それはお祭りにあまりむちやなことをしたから、瀛神さんが怒られたにちがいないという人が出て、次の祭りから恐れて神輿をかつぐ者はむろん手を触れる人もいなくなった。
明治の末、神社の合祀を政府が奨励し、八旛神社に高津の宇高神社・垣土の恵美須神社等々を八旛神社の境内に移したが、瀛神さんだけは神様の怒りを恐れて誰も御神体はむろん神輿も八旛神社に持って行かずそのまま今日に至った。瀛津神社は沢津だけではなく近郷の人々のおまいりが絶えない。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
高津の地名(二)
寺田(字高五六番地ー七八番地)八旛神社の別当寺の西正寺がこの寺田にあった(今の田ノ上西丁目)。
勘左衛門開 現在の浮島小学校の敷地一帯(今の八幡二丁目)。
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61.牛頭の墓の話
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高津のある人が、郷山に遊びに行ってあちこち歩いていて、一箇の古ぼけた石を見つけた。古いものに関心をもっていたその人が、その石を持って帰り、床の間に置いて喜んで眺めたりさすったりして、ひとり悦に入っていた。
その夜、その人の奥さんが原因不明の病にかかり苦しみ出した。それが三晩も続いた。その人も奥さんも、石を取って帰った晩からだから、この石に何か関係があるにちがいないと恐ろしくなって、取って帰った古ぼげた石をもとあった所へ返すことにし、重い石をかついで郷山の西の方岡崎城跡のある地点に返した。すると奥さんの病気がけろっと治った。
後日ある人に、石をかついで帰った人がそのいきさつを話すと、聞いていた人は、「岡崎牛頭とはごんすとよむのだ、その付近に天皇さんという地名がありやせんか。」といわれた。地区に帰って古老にたずねるとやはり天皇という名の土地があるといってくれた。そしてのち、その石を市内のあるお宮に持って行った。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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62.国領川の洪水の話
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国領川は新居浜を二分する川で、新居浜が工業の発達した街になっただいじな工業用水を供給し、また田畑の灌漑にと大いに利用されたが、年に何回が起こる洪水に悩まされた(土木工事が稚拙な時代は国領川に橋などほとんどなかった)。大正九年(1920)西条まで汽車が開通して国領川にも城下にりっぱな鉄橋がかかった。そうして汽車が通った。
川東の者が川西へ行くには、洪水の時は川の水が少なくなるまで待たなければいけなかった。川に水が出ても、浅い所を知っている人は渡ったものだ。川の浅い所は、今の平形橋の少し上流と敷島橋の所と新高橋の少し下流にあった。なれた人は、まだかなり流れの早い時も渡れたが、不なれな人が時に川水に流されておぼれ死ぬこともあった。誰いうともなしに、国領川は一度水が出ると人がおぼれて死なないと水が引かないといったりした。また国領川は人とり川だともいった。
城下の鉄橋を汽車の通らない時に、新居浜駅の人が来て渡してくれたこともあったとか。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
高津の地名(三)
小松原 今の清水街・南小松原間珍区域を言う。旧金子村の一部だったところ。
孫九郎 今桜木町に名が変わっている。
柳の下 今バス停のあるあたり。今の郷二丁目・高田一丁目の間にあたる。
桜木 東雲町の東の地域をいう古くからの地名。
一ノ開 現在東中学があるあたりを呼んでいた地名。
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63.タヌキに化かされた話
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昔のこと、何年くらい前かはっきりしないが、高津の人が川西に用事があって、国領川を渡って用事をすますともう夕方もかなり遅く、日が元塚あたりで沈んでしまった。国領川を渡る頃は薄暗くなった。その人が国領川の中にある一木松の近くで一本松に棲んでいるタヌキに化かされて、ふらふらしながら沢津の西の方清水大師の付近の植田の中をはいまわっていた。近所の人に、
「あんた、何しよんぞな。」
と注意されてはっと気がついて家に帰ることができた。
また、ある漁師が、青と尻で投網をうって魚をたくさん獲ってよろこんでいた。が、かたっぱしからタヌキにくすねられて帰ったら一匹も魚が寵の中になかった。
タヌキに化かされた人は他のものは見えないのに道(化かされている道)がはっきり見え、魚が見え、またべんとうもはっきり見えるもんだよと化かされた人がいっていたとか。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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64.お宮の木を買うなという話
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昔からお宮の木を買うもんでないといわれていた。そのわけは、昔お宮の大きな木に、人を呪うために藁人形をつくり、その人形に呪う人の思いをこめておき、藁人形の胸にあたる所に五寸釘を打ちこみ呪ったことがあったそうです。そこで誰いうともなしにお宮の木には、呪い釘が入っていて用材にならんぞといわれてきた。昔からいろいろな方法で呪って人を不幸にしようとした話が残っています。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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65.清水大師堂の話
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ずっと昔、天正の頃(1573-1591)より弘法大師をお祀りしておった。小野文左衛門さんが特にあつく信仰していたといわれています。弘法大師の木像は沢津の海岸に流れついたそうです。今大師堂の建っている所にツバキの木が生えていたので、そのツバキの木に大師像をひっかけておがんでいた。
ところが小野文左衛門さんの家が火災により焼失する。おがんでもらうと、
「おおごとだお堂をつくって祀れ」
とのお告げで小さなお堂をつくってツバキの木から大師像をお堂の中へ祀った。
いつの頃からか、眼の病気を治してくれるお大師さんといわれ、清水をもらいにお詣りに来る人がだんだん増え、一時大阪より特別に船を仕立ててお詣りに来るほどであった。
清水の井戸は、今も御本堂の中にある。昔お堂のそばをきれいな小川が流れていて、年に一度お祀りしている仏像を川に浸けて浄めていたそうです。
信仰する人が、清水大師の境内へマツの木を植えて境内の美観を得ようとした。目的を達してお堂の周囲がりっぱになったが、その大きくなったマツの木で、自殺する人が何人か出て、とうとうマツの木を伐ってしまったそうです。今、有志の寄進によって、四国八十八か所の御本尊の石仏をお堂を囲むようにして建てている。お詣りの人が絶えないとのことです。
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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66.ツルの話
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昔、新居浜付近に湿地が多く、姿の美しいツルが飛んで来て越冬していたそうです。西条藩では触れ文を出して、捕獲を厳禁していたそうです。高津の在のある人が、その禁じられているツルを捕獲し料理して食べようとした。西条の藩庁の役人が、ツルを殺したことをとがめた。するとその男は、
「これはツルではない。白サギだ、よく見てください。」
といいはった。西条藩の役人は罪人をつくりたくなかったのか、だまされてやって、
「そうか白サギか。」
といってことなくすんだ。その男の子孫は今も続いているとか。(垣生にも似た話が残っています)
(高津公民館でお年寄りより聞いた話の要約)
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